日本に飢饉があった、餓死者が続出したなんぞ信じられない時代になっている。多くの人が食べ過ぎて命を縮めているくらいだ。しかし、江戸時代には飢饉があった。特に享保、天明、天保は三大飢饉と呼ばれている。今日は天保の大飢饉の史跡である。
板橋区赤塚5丁目の東京大仏の乗蓮寺に「天保飢饉の供養塔」がある。
天保の大飢饉の被害は東方地方が大きかったというが、江戸市中も悲惨だったようだ。板橋区教育委員会の説明板(昭和63年3月)を読んでみよう。
天保の飢饉は、初年の東北の不作に始まり末年まで続くが、とくに四年から七年にかけては全国的な不作続きに疫病の流行が追打ちをかける形になって、餓死者や行路病死者が大勢出た。幕府はその対策として、新宿・品川・千住宿とともに板橋宿にも救助小屋を設けるなどしたが、その惨状は眼もあてられないほどであった。
乗蓮寺は当時板橋宿の仲宿にあり、時の住職撮誉上人がこれらの死者を寺内に埋葬し、この供養塔を建立した。台石には天保八年(一八三七)三月から同年十一月の間の死者四二三人(男三三三、女四九、こども四一)の戒名が刻まれている。
上の写真が台石の部分だ。お寺の案内板には「忘れまい」の言葉が書いてある。こうした事実があったことを飽食日本人は決して忘れてはならないのだ。この供養塔のおかげで食の大切さに気付くことができる。当時の住職、そして供養塔を大切に守り伝えた乗蓮寺に心から感謝申し上げたい。
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