先の大戦で東京や大阪、名古屋などの都市は激しい空襲を受けたのに、京都や奈良、鎌倉はほとんど無傷だった。なぜか。それは、古都の文化財を守るためアメリカが配慮したおかげである。このことは、かつての常識であった。
北茨城市大津町五浦の茨城大学五浦美術文化研究所に「ウォーナー像および覆堂」がある。
早速、説明板を読んでみよう。
天心の教えを受けた美術史家ラングドン・ウォーナーは第二次大戦中、爆撃から奈良、京都などの日本の都市を外す文化財リストをアメリカ政府に提出したとされる。その功績を称えようと日立製作所から胸像建設の計画が起り、各方面からの寄付によって、昭和45年3月ウォーナー博士功績顕彰会がこれを建設した。肖像は平櫛田中が制作、美術史家矢代幸雄が台座の賛文を草した。覆堂は、天心ゆかりの日本の文化財の象徴として、法隆寺夢殿を模して設計されている。
そう、古都を救ってくれた恩人はウォーナー博士である。日本政府が勲二等瑞宝章を授与して謝意を表したのも当然だろう。博士を称えて日本には6か所に記念碑があるという。奈良の法隆寺と安部文殊院、京都の霊山歴史館、会津若松の勝常寺、JR鎌倉駅前、そして本日紹介している五浦である。いずれもウォーナー博士によって救われた都市であるが、五浦には明治末期に博士が最初に来日した際に滞在し岡倉天心に師事したというゆかりがある。
しかし、ウォーナー博士の功績は誤りであるという。吉田守男「京都に原爆を投下せよ ウォーナー伝説の真実」(角川書店・平成7年)は次のように記している。
再検討した結果、アメリカ軍がその文化財を守るために古都の爆撃を回避したという<文化財保護説>はまったく誤りであることが判明した。そもそも、文化財を守るために京都・奈良を爆撃するな、という軍事指令など、どこにも出されてはいなかったのである。
<文化財保護説>が誤りであれば、誰がその恩人か、などという恩人探しは無意味となる。なぜなら、文化財を守るために爆撃を止めさせた、という美談・善行があるからこそ、それを提案し実行させた者が恩人となり得るのである。<文化財保護説>が誤りである以上、いかなる恩人も存在し得ないのは理の当然である。
長い間、京都や奈良を救った恩人としてウォーナー博士の“功績”が日本人の間でたたえられてきたのだが、ここに《ウォーナー伝説》は事実無根のつくり話であったことが確定した。
ただし、文化財リスト、いわゆる「ウォーナー・リスト」は実在するものの、日本の代表的文化財を列挙したものであって、爆撃除外のリストではなかった。それゆえ、名古屋城、岡山城、福山城などの天守は炎上し、かの首里城、かの広島城もご存知の通り失われた。
五浦美術文化研究所の敷地内には石碑「亜細亜ハ一な里」がある。説明板を読んでみよう。
天心が没して25年後、日中戦争が勃発した。『東洋の理想』の冒頭の言葉「Asia is one」は大東亜共栄圏という戦争遂行の理念の一つとして利用され、一躍世に広まった。そうした背景のもと、天心終焉の地・赤倉の土地保存のため、岡倉天心偉績顕彰会が昭和17年に設立された。これを機に五浦の土地建物が顕彰会に寄贈され、「亜細亜は一なり」の文字は横山大観が揮毫し、横顔の浮き彫りは美術院同人の新海竹蔵が制作した。
大東亜共栄圏、共に栄えると謳いながら、その侵略性のため仲間であるはずの東洋諸国に受け入れられなかったスローガンである。それに対してウォーナー伝説はどうだろう。敵国アメリカに対するやや暴走気味の謝意。外国と価値観を共有するとは、かくも難しいことなのか。
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