神護寺像の源頼朝像は藤原隆信作の似絵の典型例だと思っていたのが、近年の研究によれば真の像主は足利直義だという。同様に平重盛像は足利尊氏だとされる。とすれば頼朝の冷徹さ、重盛の温厚さを見事に表したとする肖像画の評価も覆ることになる。人を見かけで判断してはならぬことの歴史的教訓である。今日はその重盛のお話をしよう。
大阪市平野区に「小松神社」が鎮座する。
重盛が早世さえしなかったら平家嫡流であったはずの小松家は、維盛、六代と続くが、『平家物語』巻十二「六代被斬」に語られるように哀愁を誘う終末を迎える。この神社と小松家との関係や如何に。社頭に掲げてある説明板を読んでみよう。
由来
瓜破の古書「船戸録」によると、この地に源氏の武士権守宗重の一子で湯浅七郎兵衛宗光と言う人が住んでいた。
この宗光が安元の戦いの際、平重盛に危い命を救けられたことがあった。その後、平重盛は紀州の熊野浦に入水してこの世を去った。
このことを知った宗光は報恩のため自己所有の土地を寄進し、社殿を建て、その霊を祀つり小松大明神と名づけられた。
その後、小松大明神は本郷の氏神さまとして郷民たちの信仰を集めるようになった。
元来、この神社は当地の南西方向に位置していたが鉄道敷にかかったため天神社に合祀されていたものを、南之町の有志によりこの地に社を昭和二十二年に建立し、祀つることにされた。
昭和六十年八月 小松神社
湯浅宗光は紀伊を本拠とする鎌倉御家人であり、安元は1175~77年に当たる。平重盛が死去するのは1179年であるが、病死のはずだ。入水したと伝えられるのは維盛であり、混同が生じている。
湯浅宗光と平維盛との邂逅は『平家物語』巻十「維盛出家」に描かれている。『平家物語評釈』(大正13年、明治書院)から抜粋しよう。
藤代の王子を始め奉って、王子王子伏し拝み参り給ふ程に、千里の浜の北、岩代の王子の御前にて、狩装束なる者七八騎がほど行きあひ奉る。既に搦め捕らむずるにこそ、腹を切らむと、各々腰の刀に手をかけ給ふ所に、さはなくして馬より下り、近づき奉ったりけれども、少しも過つべき気色もなく、深う畏って通りぬ。この辺にも見知り参せたる者のあるにこそ、誰なるらむと恥しくて、いとゞ足早にぞさし給ふ。
これは当国の住人湯浅の権の守宗重が子、湯浅の七郎兵衛宗光といふ者なり。郎等ども、「あれはいかに」と問ひければ、「あれこそ小松の大臣殿の御嫡子三位の中将殿よ、そもそも八島をば何としてかは遁れさせ給ひたりけるやらむ、はや御さまかへさせ給ひたり。与三兵衛、石童丸も同じう出家して御供にぞ参りける。近づき参って御見参にも入りたかりつれども、御憚もぞ思し召すとて通りぬ。あなあはれなりける御事かな」とて、袖を顔におし当てゝ、さめざめと泣きければ、郎等どももみな狩衣の袖をぞぬらしける。
出家した維盛主従は熊野街道を下っている。そこへ武者が7~8騎やってきた。捕らわれるならば自害すべしと刀に手をかけたが、武者は馬から下りて近づき深くかしこまっている。黙って通り過ぎたが「このあたりにも私を知っている者がいたのか、誰であろう」と恥じ入り足早に進んでいった。
武者は湯浅宗光、宗重の子である。湯浅宗重は平治の乱において平清盛を助けた有力武将である。宗光の郎等は「あれはどなたですか」と尋ねる。「あのお方こそ小松内府重盛殿の嫡子、三位中将維盛殿よ。そもそも屋島の合戦からどうやって抜け出すことができたのだろう。主従そろって出家なされている。人目をはばかっておられるだろうから、お声掛けは控えておいた。ああ、人の浮沈は世の習いだが、哀しいことよのう」と宗光はさめざめと泣くのであった。
この一節から判断すると、湯浅宗光と関係が深そうなのは平維盛のようだ。小松神社が一時期合祀されていた天神社の説明板には、三祭神の一柱が「平維盛」とされている。
重盛の話をしようと書き起こしたのに、維盛の話になってしまった。美しい公達であったと伝えられ、頼朝追討、義仲追討の総大将となるが大敗を喫してしまう。そして戦線離脱に出家、入水。おそらく自分を責めたのだろう。祭神とされるに十分な人生である。そんな平維盛を偲んで湯浅宗光が建てたのが小松神社であったという見方が最も分かりやすいだろう。
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