武士の棟梁といえば、賜姓皇族の源氏と平氏である。源氏のうち武門として最も栄えたのは清和源氏であり、清和源氏のうち最も栄えたのは河内源氏であった。その河内源氏こそ、後世の武家社会において憧憬の的となった名門中の名門である。
大阪府南河内郡太子町大字太子に「源頼信墓」がある。国指定史跡の「通法寺跡」の一部である。
冒頭で清和源氏が武門の名門だと述べた。源頼朝、足利尊氏は確実に清和源氏、徳川家康もこの流れを汲むと自称している。その始祖は第56代清和天皇である。本日の主人公である源頼信は次のような系譜に位置している。
清和天皇-貞純親王-源経基-満仲-頼信-頼義-義家-義親-為義-義朝-頼朝
ところが、この通説を頼信自身が否定しているという。石清水八幡宮田中家文書「河内守源頼信告文案」によれば、次のような系譜となる。
清和天皇-陽成天皇-元平親王-源経基-満仲-頼信
つまり、清和源氏にあらずして陽成源氏というわけだ。へえ、そうなんだ。清和天皇にしろ陽成天皇にしろ、子孫を武門の主流にしようなど考えも及ばないことであり、後世の我々にとっては結局どちらでもよい。
だが名門「清和源氏」のの語感が醸し出す吟醸香は、「陽成源氏」の遠く及ばぬところだ。しかもこの文書は写しで中世偽文書ではないかという指摘がある。やはり「清和源氏」は揺るがないようだ。
清和源氏の本流、河内源氏の由来について、源氏ゆかりの壺井八幡宮の由緒書は次のように記している。
寛仁四年(一〇二〇年)多田満仲公の四男、源頼信公は、この地の香呂峰に館を営み、同年九月十日より居住し、河内源氏の祖となる。平忠常の乱を平定後、河内守に任ぜられる。
一般に頼信は満仲の三男とされている。長男の頼光は摂津源氏を継承し、二男の頼親は大和源氏の祖となった。河内源氏の祖となった頼信は、平忠常を戦わずして降伏させたほか、花山天皇出家事件で天皇を騙した藤原道兼、後には「この世ををば」の道長に仕えていたことが知られている。
その頃のこと、『古事談』に次のようなエピソードが紹介されている。(国史研究会『国史叢書』より)
頼信者町尻殿家人也。仍常云、奉為我君、可殺中関白。我取剣戟走入、誰人防御之哉云々。頼光漏聞此事、大驚制止云、一者殺得事極不定也。二者縦雖殺得依其悪事、主君為関白事不定也。三者縦雖為関白、一生之間 無隠守主君事、所不定也。
頼信は、町尻殿(藤原道兼)の家人であったが、つねづね「わが君のため、中関白(道隆)を殺してやる。俺が刀をもって走り入れば、誰一人防ぎ得まい」といきまいていた。この事を洩れ聞いた兄の頼光は、驚いてこれを制止し、「一つには殺せるかどうかわからない。二つには、たとえ殺すことが出来ても、そのために主君が関白になれるかどうかわからない。三つには、たとえ関白になられたとしても、生涯これを守り通し得るかもわからないではないか」とたしなめた。(訳は角川書店『世界人物逸話大辞典』による)
さすがはお兄さん、冷静です。ここでお兄さんが止めなかったら、後の河内源氏はなかったかもしれない。血気盛んな弟は、『十訓抄』に次のように名前が挙げられている。(経済雑誌社『国史大系』第15巻より)
此党は頼信。保昌。維衡。致頼とて。世に勝れたる四人の武士也。両虎戦ふ時はともに死せずと云事なし。
源頼信、藤原保昌、平維衡、平致頼、この四人は大変優れた武士で、相争えばともに命を失うだろう。当時は実際に命を失うほどではなかったが、源頼信と平維衡、それぞれ5代後の義朝と清盛との間には激しい争いが生じる。
それにしても、「我取剣戟走入、誰人防御之哉」、頼信のこの自信は見事である。武門の精華となった河内源氏の祖は、やはり武士の中の武士であった。
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