今回で600記事となった。酒を呷って旅を続けブログを綴れることができるのも天神地祇のおかげである。記念の記事は加納城である。とはいえ、決め打ちで訪れたわけではなく、宿から歩いて行ける範囲にあったから行ったまでのこと。その偶然の出会いが史跡巡りの楽しみである。
岐阜市加納丸之内に国指定史跡「加納城跡」がある。
写真は天守台の石垣である。このあたり本丸の石垣はよく保存され、史跡公園として整備されている。加納景観まちづくり実行委員会がご自由にお取りくださいとリーフレットを用意してくれている。天守閣について次のように記されている。
本丸北西の土塁の高まりは江戸時代の絵図には「天守台」と記されています。天守閣が描かれた絵図は無いので、建てられなかったとされています。しかし、記録に無いからと完全に否定してしまうのでは寂しいので、発掘が行われるまで(少しでも)希望を持ちたい。広江の橋から広小路方面を眺めるとその延長は天守台です。ついついその上も、と夢想してしまいます。
天守閣がなかったとはいえ、今の岐阜地方気象台の場所に岐阜城の天守を移築したという三層の隅櫓「御三階」があった。御三階は享保十三年(1728)に焼失している。
この城は関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が慶長七年(1602)から造らせた。廃城となった岐阜城の代替をする近世的平城であった。今では想像しがたいが周囲が堀と川に囲まれた水城だったという。
最初の城主は初代の京都所司代を務めた奥平信昌である。加納藩は、奥平氏は3代、その後、大久保氏が1代、戸田氏が3代、安藤氏が3代、永井氏が6代と譜代大名の藩地であった。城下の中心は織田家の「岐阜」に代わって「加納」に移り、中山道の宿場町としても栄えた。
このように徳川幕藩体制の要地として栄えた加納であったが、明治になって「岐阜」が県名次いで市名に採用され、加納藩や加納宿の名はあまり知られていない。今では‘岐阜=織田信長’のイメージになっており、「ぎふ信長まつり」も昨年で56回を数えている。
観光地としても、加納城よりは岐阜城が人気だ。上からは眺めがよいし下からは絵になるお城だ。黄金の信長に天空の城、これが岐阜らしい景観だ。
それでもこの記事は加納城を応援したい。戦乱の世を偲ぶより、太平の世を顕彰するほうが有意義ではないか。見よ、天守台の石垣を。近世社会における繁栄を支えたのは、堅固で地味な城を持つ譜代大名であった。
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