秀吉にも家康にも側室がたくさんいた。英雄と出会うことにって運命が翻弄された女性が多く、シンデレラストーリーもあれば涙を誘う悲劇もある。
今日紹介するのは家康の側室で、御三家のうち水戸家と紀伊家の血脈の源となった女性である。どのような人生を歩んだのか、全高5mを超える供養塔を前にしながら振り返ろう。
静岡市葵区沓谷2丁目の蓮永寺に「お万の方供養塔」がある。ここは日蓮宗のお寺である。お万の方については「徳川家康公の側室(水戸光圀公の祖母)」と記されているのみだ。
優美で凛とした姿の宝篋印塔で、「蓮華院妙紹日心大姉」との法名が刻まれている。院号としては「養珠院(ようじゅいん)」のほうが知られている。戒名に「日」があることから分かるように、お万の方は日蓮宗の熱心な信者であった。
お万の方は上総勝浦城の正木頼忠の娘として生まれた。勝浦城のあった勝浦市の八幡岬公園には、「養珠夫人の像」が建てられている。のち母の再嫁により、伊豆河津城の蔭山氏広のもとで育つことになる。江戸幕府が成立してからは、実家の正木氏も、養家の蔭山氏も旗本に取り立てられている。
お万の方が生まれたのは、天正五年(1577)とも天正八年(1580)とも言われている。おそらく天正五年が正しいだろう。文禄二年(1593)に家康の許へ出仕する。
紀州家の祖となる頼宣(よりのぶ)を産んだのが慶長七年(1602)、水戸家の祖となる頼房(よりふさ)を産んだのが翌八年(1603)であった。家康の十男と十一男である。
慶長十三年(1608)のこと、日蓮宗の総本山身延山第22世日遠(にちおん)上人は、浄土宗の信者である家康から、「念仏無間」は論拠のない空言であるとの旨の誓状の提出を求められた。
「念仏無間」とは、日蓮が浄土宗を批判した際に使用したスローガンである。「真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊」をまとめて「四箇格言」という。日蓮の後継者である日遠は、いかに家康の求めであろうと、「四箇格言」の放棄を断固として拒否した。
当然ながら家康は激怒、日遠を安倍川畔で磔にするよう命じた。これを諌めたのが誰あろう、養珠院お万の方であった。日蓮主義の宗教家、田中智学は『身延に登りて』(天業民報社、大正12)で、次のように語らせている。
多年の洪恩を蒙り、平素は君のおん慈みに忸(な)れ候ても、今は一世の浮沈、申さば国家の一大事、法華経を信ぜざるだに無間地獄の業と掟てられ候上に、これは護国誠忠の持経者を死罪に行ひたまふ、あまりの禍患(わざわひ)、君の今生後世(こんじやうごせ)の恐ろしさに、たとひおん手に撃たれまいらすとも、妾(わらは)が命は素より君のおん物、このまゝに身を八裂きに命召され候とも露いとひ候はじ、只君のおん上、御家の瑕瑾(かきん)、伸べては国土万民のため、ひたすら日遠の刑罪思召(おぼしめし)とゞまらせたまひて上願の旨にまかせ、念仏宗はおろか諸宗の名僧学匠を御前に召出されて、黒白両断の対決をこそ願はしう存じ奉る。
家康公から深い慈しみを賜っている私ですが、今こそ一大事です。法華経を信じなければ地獄に落ちるというのに、誠を尽くす法華経の行者を死罪とするとは。家康公の今後にとてつもない災いが降りかかると心配です。たとえ殺されようと、私の命は家康公に捧げたもの、身が八つ裂きにされようともかまいません。家康公と徳川家の名を汚さぬよう、そして天下万民のために、日遠上人の処刑を思いとどまり、願いに任せて浄土宗やその他の僧を集めた宗論を開催するようお願い申し上げます。
記録に残っているセリフではなかろうが、お万の方の気持ちがよく表れている。この訴えは家康の心を動かし、日遠助命の願いは聞き届けられた。その後、お万の方は日蓮宗の信仰をさらに深め、七面山の女人禁制を解くなど、宗門に貢献したということだ。
今日紹介している蓮永寺は、元和元年(1615)に駿府城の鎮護として、お万の方によって再建された寺院である。お万の方の墓碑は蓮永寺の他に、池上本門寺、杉並区の理性寺、身延山久遠寺、本遠寺、三島市の妙法華寺、常陸太田市の久昌寺にある。
このうち池上本門寺には紀州徳川家墓所がある。紀州徳川家はお万の方の子孫である。理性寺はお万の方の実弟の家系、旗本正木氏の菩提寺である。身延山久遠寺はお万の方が帰依した日蓮宗の総本山、本遠寺ではお万の方の葬儀が行われた。妙法華寺はお万の方が移転に尽力した。久昌寺はお万の方の孫、水戸光圀公を開基としている。
以上のように、お万の方は一門の隆盛に尽力し、自らは信仰に生き、子孫からも宗門からも敬慕された偉大な女性である。立派な墓碑が各地に建立されているのも、むべなるかなである。