「目には目を、歯には歯を」と云へることあるを汝ら聞けり。されど我は汝らに告ぐ。悪しき者に抵抗(てむか)ふな。人もし汝の右の頬をうたば、左をも向けよ。
「なんぢの隣を愛し、なんぢの仇を憎むべし」と云へることあるを汝等きけり。されど我は汝らに告ぐ。汝らの仇を愛し、汝らを責むる者のために祈れ。
新約聖書「マタイ伝」第5章の有名な一節である。キリスト者は絶対的平和主義なのかと思えば、世界史上の現実はそうではない。十字軍をはじめとして、キリスト教国は血みどろの戦争を繰り返してきた。
それは日本でも同じこと。仏敵と戦う僧兵を思い起こすだけで十分だが、本日は、伊勢神宮に仕える人々も激しい争いをしたという話だ。信仰は信仰、戦いは戦い、「政教分離」とはこのことか。
伊勢市常磐三丁目に「村山砦(むらやまとりで)跡」がある。とても砦とは思えない住宅街である。
ここは伊勢神宮の外宮から、それほど離れてはいない。神様のお膝元で争いとは穏やかではない。いったい何があったのだろうか。説明を読んでみよう。
文明十八年(一四八六)宇治と山田が争った際国司北畠氏と手を組んだ宇治に対し山田側は御師村山(榎倉)武則を大将としてこのあたりの高台にこもって対抗した。
宇治は内宮の、山田は外宮の、それぞれ門前町である。神様が争ったのではなく、神宮のヘゲモニーを掌握したい神人(じにん)たちの争いであった。文明18年(1486)は、山田(大将:村山武則)VS宇治(援軍:伊勢国司・北畠政郷)、という状況であった。
村山はこの砦を拠点に宇治に対抗した。北畠政郷は神域を戦場とするのは気が進まなかったが、意を決して山田を焼き討ちにした。この時、村山はどのように戦ったのか。『宇治山田市史』下巻(昭和4)の「村山武則」の項を読んでみよう。
山田方は国司に敵対するのは難事であるとて、ためらうた所が、武則は皆を励まし家族並に同志を率ゐて奮闘したけれども、腹背の包囲に術尽きて、外宮宮域に逃げ込み、再び打って出たが、武則は到底勝算のないことを知って御殿に火をかけて切腹したのである。時に同年十二月廿二日、年三十二と称せられて居る。
なんと外宮を外宮に仕える者が焼いてしまうという不祥事だったのである。ま、戦争とはそういうものだ。悲しいことだが、何でもありとなる。おそらくこれからも、争いは起き続けるだろう。
だから初めから、争ってはならない。聖書の言うところ即ちこれ真実なり、なのだ。キリスト教であれ、仏教であれ、伊勢神道であれ、いずれの宗教も平和を理想としている。これから先も、平和を希求する者は必ず、宗教の言葉に耳を傾けるに違いない。
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