「コンクリートから人へ」
かつて、政権交代の熱狂の渦中でよく聞いたキャッチフレーズだ。コンクリートが悪し様に言われていたが、耐久性、耐震性、気密性、断熱性、耐火性、遮音性と優れた面はいくらでもある。ところが、電柱の世界では、地球に優しい木製が消え去り、コンクリート製が標準となっている。うちの近くの電柱も、子どもの頃には確かに木製だったが、コンクリート製になって久しい。
これは平成22年に岡山市北区西古松で撮影した木製電柱である。街のインフラを凛として支えている勇姿だが、今はもう撤去されている。
伊勢市一志町に「昭和の歴史とともに歩んだコンクリート電柱」が立っている。
「日本最古のコンクリート電柱」は、函館市末広町に今も現役で立っている。大正12年(1923)建造ということだ。いっぽう、本日紹介の電柱は昭和3年(1928)建造である。説明板があるので読んでみよう。
昭和の歴史とともに歩んだコンクリート電柱
昭和三年に昭和天皇ご即位の大典が京都でとり行われ、同年十一月には、両陛下が伊勢神宮にご参拝されました。
これにあわせて、皇大神宮(内宮)宇治橋付近から宇治浦田町交差点付近までの間(通称おはらい町通り)約六百mに、通信ケーブル架渉用にコンクリート電柱二十三本が建設されました。
電柱は足場組立装置により現場において施工したもので、ホーロー引の番号札が取り付けられていました。
これらの電柱も、古い歴史を持つおはらい町の再開発計画(街並保存)の一環として、電話線の地中化が行われることとなりヽ平成四年十月に全て取り除かれました。
この電柱はその内の一本で、昭和初期としては非常に数少ないコンクリート電柱であることから、ここに保存のこととしました。
御大典を終えられた昭和天皇は、昭和3年11月21日、伊勢神宮に親拝し即位を奉告した。御大典に関わる一連の動きを詳細に報道しようと、新聞社はしのぎを削っていた。当時、無線や電話で原稿は送ることができたが、写真はどうにもならなかった。
ちょうどその頃、日本電気の丹羽保次郎が現在のファクシミリの技術の実用化に我が国で初めて成功していた。彼の開発した「NE式写真電送装置」を現在の毎日新聞社が導入し、他社を圧倒する報道を展開したという。
そうした状況の中で建設されたのが、「通信ケーブル架渉用」の「コンクリート電柱」である。同じ電柱が、技術者で文化人の本多静雄とのゆかりで、「豊田市民芸の森」にも保存されている。写真電送を行うためというよりも、電話網整備の一環であったらしい。函館のは「日本最古のコンクリート電柱」で電線を架けているが、こちらは通信回線を架ける「日本最古級のコンクリート製電信柱」(豊田市民芸の森での表記)なのであった。
無味乾燥な印象を受けるコンクリート電柱だが、「最古級」が証明するように、耐久性抜群で実用的であることが分かる。ライフラインを守る電柱や電信柱に、木のぬくもりを求める必要はない。
「木からコンクリートへ」
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