48という数字は、数ある数字の中でも少々特別らしく、「AKB48」とか「いろは四十八組」などと、見かけることが多い。美しい渓谷の「赤目四十八滝」もあるし、相撲の決まり手は「四十八手」と言われる。
実際の数には関係なく48という数字が選ばれているのは、なぜか。歴史的には「阿弥陀四十八願」の影響が大きいとされており、数学的には約数が多く割りやすいという特徴がある。
「備前四十八ケ寺」という霊場巡りがある。有名な八十八ケ所と同様に江戸時代後期にさかんに参詣された。この備前四十八ケ寺を建立したと伝えられる高僧が「報恩大師」である。本日は、今年生誕1300年となるという報恩大師の生誕と入寂の地をレポートする。
岡山市北区芳賀の顕本寺の裏山の麓に「報恩大師産井之旧趾」がある。
報恩大師と聞いても知らない人は多い。まずは一宮地域活性化推進委員会による説明板の一節を読んでみよう。
猶、境内の一隅に報恩大師産湯の井戸と称する桶井あり。天平の昔、孝謙天皇の勅許を得て備前四十八ケ寺を建立したマカ上人の誕生地と伝える。
「桶井」は「涌井」の誤りだろうが、マカ上人とは誰か。異国の人のように思えるが…。実はマカ上人は摩訶(まか)上人で、報恩大師のことである。
報恩大師の生まれについては、金山寺文書「備前国金山観音寺縁起写」によると、次のように伝承されている。(引用元は旧版『岡山市史』第19章「山上伽藍と報恩大師」)
大師尋其俗姓者、当国津高郡駅家郷(国人用馬矢字)波河村百姓野人子也。
大師の出身は、備前国津高郡駅家郷(地元の人は馬矢〔今は馬屋〕の字を用いる)芳賀村の百姓の子である。長じて大和に出て活躍し、孝謙天皇からの信頼も得たというのだ。
瀬戸内市牛窓町千手に「報恩大師供養塚」がある。市指定の史跡である。この近くにある弘法寺は報恩大師を中興の祖とし、ここを奥の院としている。
「寛政」の年号が見えるように、往時はずいぶんとにぎわっていたらしい。どのような場所だったのか。瀬戸内市教育委員会の説明板を読んでみよう。
永倉山の山頂にある数多くの石が積み重ねられた供養塚は、孝謙天皇の病を祈祷により治し、備前国に四十八ケ寺を建てることを許され建立し、延暦十四年(七九五)に亡くなったといわれる報恩大師の墓地であると伝えられている。
この墓所は奥の院と呼ばれ、『千手山弘法寺略縁起』によれば、弘法寺の奥の院としてだけではなく、備前国四十八ケ寺の奥の院でもあったとあり、近隣の者はもちろん、遠方からも参詣し、祈願する人が絶えなかったと記される。
かつて、この山から平安時代後期の様式を示す銅鏡が見つかっている。
「備前四十八ケ寺」の48という数字も「阿弥陀四十八願」に由来すると考えられるが、現在の宗派は様々であり、阿弥陀信仰でまとまっているわけではない。報恩大師の伝承の有無もさまざまだ。
報恩大師は備前のこの地で亡くなったと信じられ、多くの人々から篤い信仰を集めた。いっぽうで金山寺文書「備前国金山観音寺縁起写」には、次のように記されている。
然而後大師於兒島寺延暦十四年六月廿八日遷化給畢
報恩大師は延暦14年(795)6月28日に、子嶋寺(こじまでら)で亡くなったという。子嶋寺は今も奈良県高市郡高取町観覚寺にある。
高僧は信仰の対象ともなり、その生涯はさまざまな伝説で彩られる。何が史実なのか判別できないケースも多い。報恩大師はどうなのだろうか。
岡山県立博物館は平成14年度に特別展『備前四十八ケ寺~近世備前の霊場と報恩大師信仰』を開催した。その図録では、宗教文化史に詳しい逵日出典(つじひでのり)氏の研究成果から、報恩大師の前半生を次のように紹介している。
報恩は、養老2年(718)頃大和において誕生し、天平4年(732)頃出家、約15年間にわたり興福寺において修行したが、玄昉の急死を契機に天平19年(747)頃吉野に入山している。
誕生は養老二年(718)頃だから、今年は生誕1300年となる。ただし備前ではなく大和生まれである。亡くなったのは金山寺文書と同様に、延暦14年(795)に大和の子嶋山寺において入寂としている。
報恩大師の備前誕生説は、おそらく金山寺の関係者が語り始めたのだろう。金山寺のご本尊は京都清水寺のご本尊と「同木異体」といい、その清水寺は大和子嶋寺の延鎮によって開かれたという。延鎮は報恩大師の弟子である。それらの源流は備前にあるのですよ、というわけだ。
江戸後期の旅行ブームを牽引した霊場巡りは、近年人気が復活しているという。テーマを設けたこだわりの旅をする人が多くなってきたのだ。
報恩大師と備前とのつながりは、史実としては希薄なのかもしれない。だが報恩大師信仰としては深くつながっている。信仰は時空を超えて仏と人を結び、人と人とを結ぶのである。
備前国は報恩大使が最初に建立された北辰金谷のり金山寺に始まり,ここを総本山として岡山仏教界は再編されなければならなかったが,管理者がその神仏習合の解釈を誤り本堂が延焼するなど大きな試練を受けることとなり,本願を大きく後退させたが,数年前より天台本山法主より大抜擢人事より再興使命受けた若き住職に交代し復活に向かっている。
「備前国の地は金山寺の繁栄無くして岡山の繫栄無し」・・これは報恩大使尊の勅意であります。
投稿情報: 宏明 | 2021/04/28 09:28