核シェルターがもっとも普及しているのはスイスとイスラエルだそうだ。国情の違いからか、日本ではほとんど関心がない。そんな我が国でも、地下埋設型や少々手軽な室内設置型のシェルターが実際に売り出されている。
核シェルターは普及しない理由は、北朝鮮のミサイル発射をオオカミ少年の戯言と受け止めているからか、落ちたらお終いでしょうと開き直っているからか。あるいは、太平洋戦争末期に悲劇の舞台となった防空壕を思い出すからかもしれない。
長崎市松山町に「平和公園・松山町防空壕群(跡)」がある。2011年、平和公園に上がるエスカレーター設置工事の際に発見された。
平和祈念像から原爆資料館へ移動する修学旅行生がこの防空壕跡を見学している。我が国の平和教育は健在かのように見えるが、戦争の現実がどこまで伝わっているのだろうか。エスカレーター横の説明板を読んでみよう。
当時は浦上刑務支所があった、この平和公園の周囲の斜面には多くの家庭用や町内用の横穴式の防空壕がつくられました。一発の原子爆弾で、爆心地から半径500m以内にいた人々はほとんど即死しましたが、これらの防空壕の中でわずかながら生き残った人もいました。しかし、被爆したほとんどの人たちは、火傷や放射線などで重傷を負い、逃げ込んだ防空壕の中で苦しみながら、治療も受けられないまま、次々に死んでいきました。
終戦後、爆心地から近い防空壕にまつわる被爆の状況を、アメリカ軍は調査し、防空壕内部の形状、その中の生存者と死亡者の位置などを詳しく記録しました。そして、この調査内容は、第2次世界大戦後の核戦争に備えての核シェルターをつくる時の参考にしたといわれています。
2009(平成21)年の国土交通省の調査によれば、戦争中に長崎には防空壕が193か所ほど存在していたとされています。平和公園・松山町防空壕は、爆心地から約100mという非常に近い場所にあり、被爆前・被爆時・被爆後の人々の様子を含めて、原子爆弾の威力、戦争の恐ろしさとともに、平和の大切さを伝える被爆遺構として貴重なものです。
松山町では9歳の少女が唯一の生存者だったとされる。裁縫仕事がはかどらず困ったお母さんから、妹二人を連れて防空壕で遊んでくるように言われたそうだ。同じ防空壕でも生と死が隣り合わせで、その境目は偶然としか言いようがない。
以前に山里小学校の防空壕跡を紹介したことがある。保存のためコンクリートで補強整備され、生々しさが失せてしまっているが、松山町の防空壕跡はかつての面影をよく残している。
アメリカ軍は「核シェルターをつくる時の参考にした」というが、人体実験じゃあるまいし、731部隊を悪魔のように非難するなら、原子爆弾投下はもっと非難されてしかるべきだろう。
家庭用核シェルターの設置には、かなり高額の費用がかかる。ふだんは物置でもいいし書斎にしてもいい。ワインセラーという優雅な用途もある。ただ、核シェルターの普及よりも、ミサイルが飛んでこない環境づくりが最優先だ。悪化するばかりの米中関係の仲介役となれるような力量が、我が国にあればよいのだが。
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