「建築」とひと口に言うが、「建つ」と「築く」とは意味するところが異なる。建つは「立つ」であり、柱を立てるイメージだ。いっぽう「築く」の語源は、杵で土をつき固める「杵(き)築(つ)く」という言葉らしい。古代から伝わる版築(はんちく)は、土を層状につき固めて基壇や壁をつくる土木工法である。基礎を固めるという大切なことを地名としているのは「杵築」。縁起が良いことこの上ない。
出雲市大社町杵築東(きづきひがし)に「杵那築森(きなつきのもり)」がある。
それほど広いわけではないが昼なお暗く、原風景が残っているかのような深さを感じる。どのような謂れがあるのか、説明板を読んでみよう。
『出雲国風土記』(七三三)の「杵築の郷」条には、「天の下の国造りをなされた大国主大神のお住いを、たくさんの尊い神々がお集いになって築かれた。そこで、この地を杵築という」と、この郷の地名由来を記しています。
この森は、その神々のお集いの故地ともいわれ、また高大なお住いの神殿造営に際して、土地・木組みを突き固めるための要具である「杵」を、お住いの磐石を祈り埋納した処と伝えられています。
祭日 四月三日 十月一日
どうやら「杵築」の地名発祥の地のようだ。神々がこの森に参集して社を築き、これからの弥栄を祈念して土をつき固めた杵を埋納したという。鳥居があるが、その先には進めそうにない。森そのものが信仰の対象となっている。『出雲国風土記』出雲郡条には、次のように記されている。
杵築郷
郡家の西北二十八里六十歩なり。八束水臣津野(やつかみづおみつの)の命の国引き給ひし後、天(あめ)の下造らしし大神の宮を奉(つか)へまつらむとして、諸(もろもろ)の皇神(すめがみ)等(たち)、宮処(みやどころ)に参集(まゐつど)ひて、杵築(きづ)きたまひき。かれ、寸付(きづき)といふ。(神亀三年に、字を杵築と改む。)
ヤツカミズオミツノが国引きなされたのち、天の下の国造りをなされたオオクニヌシのお住いを、たくさんの尊い神々がお集いになって築かれた。そこで、この地を寸付という。(神亀三年(726)に文字を「杵築」と改めた。)
確かに「寸付」よりも「杵築」のほうが地名として重みを感じる。文字を改めたのは政府が次のような方針を打ち出したからだ。『続日本紀』和銅六年(713)五月二日条には、次のように記されている。
五月甲子、畿内七道の諸国郡郷の名は好(よ)き字を著け、その郡内生ずる所の、銀銅彩色草木禽獣魚虫等の物、具(とも)に色目を録さしめ、および土地の沃塉(よくせき)、山川原野の名号所由(しょゆう)、また古老の相伝旧聞異事は、史籍に載て言上せしむ
5月2日、全国の地名は縁起の良い文字にするとともに、特産物を記録し、土地の良しあしや地形の名称やいわれ、古老の語る伝説をまとめて報告させることとした。
これが風土記編纂の官命である。「杵築」という地名も『出雲国風土記』を編纂する過程で好字に改められたのであろう。ちなみに豊後の小京都「杵築」は、かつて「木付」と表記していた。「寸付」と関連があるのかないのか。
杵那築森に話を戻そう。ここでは神々が「参集」して話し合ったことが重要だ。独裁的な権威ある神が決定したのではなく、神々が一堂に会して協議したのである。私はここにデモクラシーの萌芽を見たい。分断の進む現代においては不可能に思える熟議がここでなされたと信じたいのである。
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