専門家は発掘された土器や苔むした石造物の年代を言い当てる。同じようにしか見えないんですけど、と思って聞けば、デザインが違うのだと言う。「自動車も家電もファッションも、その時代らしさがありますよね。スマホだって古い機種だな、と見分けがつくでしょう。」そう言われたら、そんな気がする。本日は巨大な宝篋印塔である。いつの時代だろうか。
鳥取市国府町町屋に「町屋の宝篋印塔」がある。
背後に写るのは、因幡三山の甑山である。石塔は苔むして時代がかっている。一般的な宝篋印塔は上部に長い相輪があり、シュッとしたフォルムなのだが…。説明板を読んでみよう。
この宝篋印塔には相輪がなく、代わりに五輪塔の風・空輪がのせられている。基礎から笠までの高さが2.34mもあり、相輪が残っておれば、3m近くになる大型の石塔である。梵字が細いことや笠の隅飾りの突起が外側に張り出していることから江戸時代のものと考えられています。
近くの寺前という所から「因州法美郡広西郷五日町屋 地福寺 干時明徳二二癸酉年六月廿四日」の銘のある鰐口がみつかっています。鰐口は寺院・神社などの堂の軒下に吊されるもので、お参りした人が綱を振って打ち鳴らすものです。明徳二二癸酉年は明徳4年(1393)のことで、室町時代初めごろ、町屋に地福寺という寺院があったことがわかります。この鰐口は県の保護文化財に 指定され、国府町役場に展示されています。
平成十一年十月
宝篋印塔と五輪塔が組み合わされた石塔であった。最初からそうなのではなく、失われた部分を代用品で補ったためであろう。時代は江戸時代と判定されている。根拠は二つ。すなわち「梵字が細いこと」「笠の隅飾りの突起が外側に張り出していること」である。
宝篋印塔を画像検索すると、中世では隅飾りがつぼみのように上を向いているが、江戸時代になると開花するように外向きになることが分かる。これは分かりやすい指標だ。町屋の宝篋印塔は花が開きかけているように見えることから、江戸時代でも前期と考えたが、どうだろう。
説明板では県指定保護文化財「銅鰐口」が詳しく説明されているが、宝篋印塔とどのような関係があるのだろうか。近世の地誌『因幡誌』では、「町屋」の由来が次のように説明されている。『因幡誌』第三法美郡広西郷町屋村より
町屋といふは国司京より下て国府に居られし時の官市の跡なり其跡絶て名を伝へたるなり。
古くから商業が行われ人が集まる「町」だったようだ。人が集まれば信仰もさかんになろう。巨大な宝篋印塔は町屋の人々の財力を示しているのかもしれない。
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