名古屋城の木造天守は当初、2020年7月に竣工するはずだった。それができないと分かると2022年12月の竣工となった。ということはもうできていなければならないのだが、一向にいい話は聞かない。
いっぽう鳥取には、かの有名な「ふるさと創生一億円事業」で再建された城がある。これぞ税金の正しい使い途であろう。さっそく登城してみよう。
鳥取県東伯郡湯梨浜町羽衣石(うえし)に「羽衣石城跡」がある。県の史跡に指定されている。
平坦面が広くて日本海まで見通すことができ、急坂を喘ぎながら登るだけの価値はある。何度も落城したというが、よくこんな城を攻め落としたものだと感心する。いったいどのような歴史があるのか、説明板を読んでみよう。
羽衣石城の歴史
羽衣石城は東伯耆の国人・南条氏の居城として貞治五年(一三六六年)から慶長五年(一六〇〇)まで約二三四年間使用された城であるが、城主の南条氏をはじめ羽衣石に関する記録は「羽衣石南條記」「伯耆民談記」などの少数のものしか伝えられていない。また、これらの諸本の成立年代は南条氏が滅んだ後、百数十年たった江戸時代の中頃のものであり、どこまで事実を伝えているかは疑問であるが南条氏を知る一つの手掛かりである。さて、これらの諸本によると、南条氏の始祖は南条伯耆守貞宗とし、この貞宗は塩冶高貞の二男で、高頁が滅亡した時、越前国南条郡に逃れた。貞宗は成長後、将軍足利尊氏・義詮の父子に仕えて功績をあげ、義詮より伯耆守に任ぜられて、貞治五年(一三三六年)に羽衣石城を築いたという。
この南条氏の活動が盛んになるのは応仁の乱以後である。明徳の乱(一三九一年)、応仁の乱(一四六七年~一四七七年)の為に伯耆国守護山名氏の権力が衰退するに乗じて、南条氏は在地支配の拡大を目ざして独立領主化をはかり、第八代南条宗勝の時には守護山名澄之の権力をうわまわる武力を保持するに至った。
大永四年(一五二四年)隣国出雲の尼子経久は伯耆国へ本格的な侵攻を行ない、西伯耆の尾高城、天満城、不動ヶ城、淀江城並びに東伯耆の八橋城、堤城、岩倉城、河口城、打吹城の諸城を次々に攻略し、同年五月中頃までにはこれらの諸城は降伏してしまった。南条氏の羽衣石城も落城し城主の南条宗勝は因幡へ逃亡した。これを「大永の五月崩れ」といい、この乱後、伯耆国は尼子氏の支配するところとなり羽衣石城には尼子経久の子国久が入城した。
しかし尼子氏の伯耆支配も長く続かず、毛利氏の台頭とともに永禄年間(一五五八年~一五六九年)には支配権を失った南条宗勝は永禄五年(一五六二年)に毛利氏の援助により羽衣石城を回復している。以後伯耆国は毛利氏の支配下に入り、南条氏はこのもとで東伯耆三郡を支配した。
天正七年(一五七九年)織田氏の山陰進出が本格的になると南条元続は毛利氏を離反して織田氏についた。毛利氏は羽衣石城を攻擊し、元続は因幡に進出していた羽柴秀吉の援助などによりこれに対処したが、天正十年(一五八二年)羽柴秀吉の撤兵とともに落城し城主元続は京都へ逃走した。
天正十三年(一五八五年)秀吉と毛利氏との間で領土の確定が行なわれ、東伯耆八橋城を残して秀吉が支配するところとなり再び南条氏に与えられた。しかし慶長五年(一六〇〇年)におこった関ヶ原の役で西軍に属した南条元忠は役後改易され羽衣石城は廃城となった。
東郷町教育委員会
なるほど二度落城し、三度目には廃城となっている。毛利織田の二大勢力の狭間に在って運命を翻弄された気の毒な南條氏。その最後とさらにその後については、以前の記事「上方合体の議に定めたり」でレポートした。
羽衣石城跡には三層の天守があるが、本当に天守があったかどうかさえ分からないという。ということは、今の天守は城郭ファンが激怒しそうな偽物で架空の建造物ということになる。いったいいつ造られたのだろうか。
この復元でも復興でもない模擬天守は平成2年にあの一億円を使って建てられた。ということは各地でネタにされているトンデモ物件の一つかと思うが、そうではない。ここには昭和六年以来、模擬天守があったのだ。外観はほぼ同じである。
建てたのは南條寅之助という南條氏の子孫であった。彼は大阪市在住で大阪城の復興天守建設の動きに刺激され、先祖ゆかりの地に私財を投じたのである。単なる観光客集めではなく、先祖を顕彰するという高邁な目的があった。その模擬天守は長い昭和のあいだに老朽化が進み、平成となって建て替えられたというわけだ。
角度を変えて撮影すると、この雄姿である。大阪城天守閣の影響を受けた模擬天守として、これからも大切にしていくとよいだろう。一度も落城しなかった城は「落ちない城」(播州白旗城など)として受験生に人気だ。ここ羽衣石城は何度も落城したが、そのつど見事によみがえった。「よみがえる城」としてPRするのもよいかもしれない。
面白おかしく紹介するのが本稿のねらいではない。私が敬意を表したいのは羽衣石城と南條氏を顕彰しようとする地元の熱い思いだ。それは模擬天守建設のはるか以前にさかのぼる。
史上初の模擬天守が岐阜城に建造されたのは明治四十三年。ちょうどこの頃、羽衣石城跡に二基の石碑が建てられた。写真では模擬天守の左手前に写っている。
細長いほうには「伯耆国守 羽衣石城主南條公累代碑」と刻まれており、書は正二位勲一等伯爵東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)、撰文は帝室博物館総長兼内大臣秘書官長正三位勲一等股野琢(またのたく)である。折れたものをつなぎ合わせている。
四角なほうには「羽衣石城址碑」と刻まれており、書は「元帥従二位伯爵祐亨」とあるから伊東祐亨(いとうすけゆき)、撰文は「南岳藤澤恒」とあるから藤澤南岳(ふじさわなんがく)である。
東久世通禧は幕末史のターニングポイントの一つ七卿落ちのメンバーの一人で当時唯一の存命者だった。伊東祐亨は初代連合艦隊司令長官を務めた海軍軍人、藤澤南岳は通天閣の命名者として知られる儒学者である。『東郷町誌』によれば、この石碑の建立も南條寅之助だったというから驚きだ。歴々たる大物たちからよく協力を取り付けたものだと、つくづく感心する。
一大プロジェクトだった東京オリンピックは、闇のお金が動いてイメージを悪化させた。同じく大事業の名古屋城天守復元もごたごたすることなく事を運び、河村城などと揶揄されることになるのだけは避けてほしい。
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