古代山城の鬼ノ城が家の近くから見えた時には感動した。なにせ20kmも離れており、もやか霞で見えないこともよくある。遠くまでくっきりと見える爽やかな日には、西方の山々の緑の中に、ほんの少々山肌を確認できる。これが鬼ノ城だ。
総社市奥坂に「鬼ノ城」があり、「鬼城山(きのじょうざん)」として国の史跡に指定されている。写真はシンボルとなる「西門」で、このあたりは総社市黒尾との境に当たる。
平成半ばの復元工事で多くの人が訪れる人気スポットとなった。遠くから鬼ノ城が確認できるようになったのも同じ頃である。城郭か霊域かで論争があったようだが、白村江の戦に対する報復を恐れて築いた防衛ネットワークの一つと考えられている。
考古学的な研究は昭和46年に始まったそうだが、伝説の舞台としては古くから注目されていた。
城郭の北東端に「温羅旧跡」の碑がある。昭和12年4月、鬼之城保勝会の建立である。
うらじゃの鬼、温羅の居城。それが鬼ノ城だというのが岡山の桃太郎伝説である。伊藤光雄『新編岡山県地誌提要』(細謹舎、明治45年)には、次のように記されている。
鬼の城(きのじやう)
温羅身幹一丈四尺余、勇猛にして仁義を守らず、嘗て日本を窺はんと欲して渡航し、遂に新山に居を定め、城壁を築き石壁を繞らし、要害を堅固にし、貢賦を掠め、領民を苦しむ。時人之を称して鬼の城と云ふ。
この温羅を退治したのが吉備津彦命で、桃太郎の鬼退治よりドラマチックなストーリーが展開する。勇猛な鬼の居城にもっとも相応しい景観がこれだ。
城の東端に「屏風折れの石垣」がある。昭和十年十一月に山陽新報社が選定した「岡山県十五景地」の金属標識はここにある。
樹木が茂って迫力不足は否めないが、急斜面にこれだけの石垣を築いた技術に驚かされる。説明板を読んでみよう。
鬼ノ城で最も著名な高石垣です。血吸川の急崖上に舌状に構築されており、内側列石や敷石が残っていることから、建物等は存在しない可能性が高いと考えられます。
西へと戻ることにしよう。西門の手前に石畳の道のようなものがある。すべての道はローマに通ずのアッピア街道が極東まで通じていたのかと思わせる。
説明板には「敷石」とある。
道のように長くは続かない。いったい何だろうか。説明板には次のように記されている。
敷石
鬼ノ城では、城壁の下の面に接して板石を多数敷きつめています。幅は基本的に1.5m幅で、城内側の広い所では5m幅にもなる所もあります。
敷石は多くの区間に敷かれており、総重量は数千トンにもなります。
この石畳のような敷石は、通路としての役わりもあるものの、敷石の傾斜などからみて、もともとは雨水等が城壁を壊すのを防ぐことを目的としたものと考えられます。
敷石は、日本の古代山城では鬼ノ城にしかなく、朝鮮半島でも数例知られるだけの珍しいものです。
とくにこの区間の敷石は、鬼ノ城でも 見事なところです。
平成21年3月
総社市教育委員会
雨水で土砂が流れるのを防ぐための施設で、我が国では鬼ノ城にしかない遺構だという。これだけの本格的な城郭でありながら、『日本書紀』に記されていない。謎の古代山城と呼ばれる所以である。
城には「き」という訓もあるから、鬼の字を連想させ「きのじょう」と呼ばれるようになったのだろう。温羅が棲むという伝説は面白いが、実際には唐・新羅連合軍の報復から我が国を守る正規軍が配備されていたのだろう。温羅が百済の王子と名乗ったのは我が国との連帯の意思表示だったのかもしれない。
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