割り込みをされるとカチンとくるものだが、駅のホームでは整列乗車が徹底しており、割り込んでくる人はそういない。ところが、地学の世界では割り込みはよくあることで、岩石の割れ目にマグマが入り込んで固まってしまうのだ。割り込んだ者は悪びれもせず、その場に居座り続ける。時間が経つと周囲が根負けして去り、割り込んだ者だけが残るのだ。
たつの市新宮町觜崎(はしさき)に「觜崎の屏風岩」がある。山は鶴嘴(つるはし)山という。
巨大な屏風岩の全容を捉えるなら、揖保川の右岸がよい。近付いて見るなら尾根の先端、觜崎橋東詰から登るとよい。ゴツゴツ岩の緩斜面で登りやすく、展望がすこぶる良い。登り口にイラスト入りの古い説明板があるから読んでおこう。
国指定天然記念物「觜崎の屏風岩」
屏風岩の岩脈は、鶴橋山を形成する流紋岩質凝灰岩に地下から石英安山岩質のマグマが貫入して冷え固まってできたものです。この岩脈は硬い岩石でできており、周囲の岩石よりも風化に対して強く、そのため周囲の山肌が風化され、この岩脈が露出し、さながら屏風を立てたように直立しているのです。屏風岩の岩脈は厚さ四~七メートル、高さ五~十二メートル、またその総延長は川底から尾根まで百二十メートルあまり露出しています。岩脈の上部はY字形に二分しており、山頂付近に登ってみると発達した節理の状態がよくわかります。
昭和六十一年十月一日 新宮町教育委員会
ベースとなる流紋岩質凝灰岩は、白亜紀後期に日本が列島ではなく大陸東縁だった頃、活発な火山活動で生じた火砕流に由来する。地質学的には相生層群伊勢累層と呼ぶそうだ。
その後、白亜紀の終わり頃に石英安山岩質のマグマが貫入、いや割り込んできたのである。石英はかなり硬いから風化に耐えたが、比較的柔らかい凝灰岩は堪え難きに堪えられなかったのだ。
尾根伝いに登ると屏風岩の上部に達する。古い標柱があり「天然紀念物屏風岩」と刻まれている。昭和6年に国の天然記念物に指定された。さらに歩いていると、美しく割れている岩があった。説明板に言う「発達した節理」の一つだろうか。
人の世は移り変われど、悠久の屏風岩は常に印象的な姿をしていた。『播磨国風土記』揖保郡越部里「御橋(みはし)岩」には、次のように記録されている。
御橋岩
大汝(おほなむち)の命、俵を積み、橋を立てたまひき。山の石、橋に似たり。かれ御橋山と号く。
オオクニヌシが俵を積んで橋をつくったというのだ。屏風に見立てるほうが分かりやすいと思うのだが、日本史上最初に「屏風」が登場するのは『日本書紀』巻第廿九天武天皇朱鳥元年(686)四月十九日条である。
戊子、新羅調を進(たてまつ)る。筑紫より貢上(たてまつ)るもの、細馬(よきうま)一匹・騾(ら)一頭・犬二頭・鏤金器(こがねのうつは)、及び金銀、霞錦(かすみいろのにしき)、綾羅(あやうすはた)、虎豹(とらなかつかみ)の皮、及び薬物の類、幷せて百余種。亦智祥(ちしやう)、健勲(けんくん)等が別に献れる物は、金銀、霞錦、綾羅、金器、屏風、鞍の皮、絹布、薬物の類、各六十余種あり。別に皇后、皇太子及び諸の親王等に献れる物各数有り。
現存最古の屏風は正倉院の鳥毛立女屏風(とりげりつじょのびょうぶ)で、8世紀半ばの作品である。霊亀元年(715)までに成立したという『播磨国風土記』の時代に、誰もが屏風をイメージできるほど普及していたとは思われない。
水平面から高い位置で細長くつながっているもの。屏風かパーティションか、万里の長城かトランプの壁か。奈良時代初期には「橋に似たり」が一般的なイメージだったのだろう。屏風岩は地学的にも図像学的にも楽しめる貴重な天然記念物である。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。