私が子どもの頃、一つ下の学年だけはクラス数が一つ少なかった。親が「ヒノエウマだからね」と言うから、そんなものかと思っていたが、今考えると、そこまで信じてたの?という思いがする。放火して火あぶりになった悲劇のヒロイン八百屋お七がヒノエウマ生まれとされたことが、「ヒノエウマの女って…」という迷信に関係しているらしい。
伝説の少女、お七の墓は各地にあるが、本日はその一つを訪ねたのでレポートする。
岡山市北区御津吉尾に「八百屋お七の墓」がある。
お七が登場する作品は数々あるが、最も知られるのは井原西鶴『好色五人女』のうち「恋草からげし八百屋物語」である。お七の一家は火事のために寺に避難した。お七は寺小姓の吉三郎と恋仲になるが、避難生活が終わって離れ離れになる。また逢いたいとの思いから放火したお七は、捕らえられて火あぶりとなる。それを知った吉三郎は出家してお七の霊を供養するのだった。
吉三郎がお七の菩提をどこでどのように弔ったか、西鶴は書いていないが、伝説はさまざまに展開した。以前の記事「八百屋お七物語の後日談」では、吉三(吉三郎)が目黒の明王院に入り、目黒不動と浅草観音の間、往復十里の道を念仏を唱えつつ隔夜一万日の行をしたことを紹介した。
ところが、江戸から遠く離れた備前にも吉三郎の足跡がある。小屋の中に掲げられている説明板を読んでみよう。
天和三年(一六八三年)江戸品川鈴ヶ森で火刑されたお七の霊を弔うためお七の両親は元禄十二年(一六九九年)江戸深川回向院へ出開張中の美作国誕生寺第十五代通挙上人にその位牌と振袖を託し供養を依頼した。お七供養のため全国行脚中の恋人吉三郎は誕生寺を訪れた后当地吉尾の佛生山法道寺でその波瀾に富んだ生涯を閉じた。村人達、二人の霊を祭るためお七吉三郎の墓を建てたのであります。
「恋人」吉三郎はお七を供養するために、目黒と浅草を往復したのではなく、全国を行脚した。そして、この地で亡くなったという。二つ並ぶ墓石は、お七と吉三郎の比翼塚なのである。ところが下の道路沿いに建てられた説明板には、少々異なる内容が書かれている。
江戸本郷追分の八百屋の娘のお七は、一六八二(天和二)年の火事で家が焼け、正仙寺に避難したところ、寺小姓の生田庄之助と恋仲になりました。吉三郎という者が、お七に火事になれば庄之助に会えるとそそのかし、お七は翌年放火しましたが、すぐに消され、死刑になりました。吉三郎は反省し、お七の遺骨を持って供養の旅に出て、野々口・小山村で亡くなりました。村人がここに二人の墓を建てたということです。
左側の三角形のものがお七の、右側の長方形のものが吉三郎の墓です。
こちらの「恋仲」は生田庄之助で、吉三郎は放火教唆のとんでもない奴だった。その後は改悛して供養の旅に出ているが、いったい吉三郎とは何者なのか。
西鶴『好色五人女』(貞享三年=1686)では、小野川吉三郎という名の恋人。『近世江都著聞集』(宝暦七年=1757)における吉三郎は、放火教唆の悪役でお七とともに処刑される。この作品では、お七の恋仲は山田左兵衛という。西鶴が参考にしたという『天和笑委集』(貞享年間)では、恋仲は生田庄之助であり、吉三郎は登場しない。
この地に伝わる伝説は『好色五人女』がベースとなっているが、他の物語も取り込んでいる。それが伝説の妙味なのだが、やはり真実を知りたい。そこで小説ではなく、歴史記録を調べてみよう。戸田茂睡『御当代記』の天和三年には、次のように記されている。
駒込のお七付火之事、此三月之事にて、廿日時分よりさらされし也
お七という女性が放火の罪で処刑されたことは確かなようだ。そんなセンセーショナルな出来事の裏に、色恋沙汰があったと推定するのは今も昔も変わらない。話に尾ひれがついて物語は成長する。お七の話も、どこまでが事実でとこからが創作なのか判然とせぬが、そうだったに違いない、と思わせる説得力がある。
もう9年すると、またヒノエウマの年がやってくる。その時分は、さすがにこの迷信は信じられなくなっているだろう。だがお七の物語は、積極的に行動するがゆえに悲劇を招く切ない純愛物語として、永く愛されていくに違いない。