どれくらい眠ったかしら 機内のアナウンスは 陽気なスパニッシュ(Holiday in Acapulco)
まさに,憧れのアカプルコであるが,今から400年前の船旅でもよく眠れたのだろうか。その海の名は太平洋である。出帆から3ヶ月を経て1614年1月25日,アカプルコに入港したサン・ファン・バウティスタ号に乗ってきたのは,伊達政宗が派遣した支倉常長であった。政宗はヌエバ・エスパーニャ,今のメキシコとの貿易を夢見ていた。その縁でメキシコ合衆国アカプルコ市は仙台市の国際姉妹都市となっている。
仙台市青葉区青葉町の光明寺に「伝 支倉常長の墓」がある。
正面の五輪塔が常長の墓で,右の碑は案内人の宣教師フライ・ルイス・ソテロのものである。奥に支倉家代々の墓がある。墓域の手前に「支倉六右衛門紀功碑」も建てられている。
常長一行は,メキシコからさらに大西洋を渡って,スペイン,そしてローマへと到達する。そこで教皇パウロ5世に謁見し,宣教師派遣の許しを得る。そしてメキシコとの直接貿易についてスペイン政府と交渉するが,目的は達せられなかった。宣教師派遣も幕府によるキリシタン弾圧強化により実現できなかった。
その後,宣教師ソテロは,布教活動のため禁教下の長崎に密入国して捕えられ,火刑となっている。支倉家も常長の死後,家中からキリシタンを出したとのことで領地を取り上げられた。(後に再興している。)
他にも常長の墓と呼ばれるものがあり,この墓にも「伝」が付いている。その最期さえよく分かっていない常長であるが,仙台市博物館が発行した『伊達政宗と支倉常長』は次のように誇らしげに偉業を称えている。
16~17世紀の遣欧使節としては,常長らに先立つこと30年程前にインド洋を経てローマまで赴いた九州の三大名の派遣使節「天正少年使節」がある。しかし,この使節はイエズス会宣教師ヴァリニャーノの企画した親善使節に過ぎなかった。それに対し,太平洋・大西洋という2つの大洋を往復した常長らの「慶長遣欧使節」は,幕府の認可を得,かつ藩主の親書をも携えた,日欧交渉史上初の正式な外交使節だったのである。