「敵は海での戦に慣れたる平家。我が軍船には艫(とも)のみならず舳先(へさき)にも櫓をつけ,進退を自在にしておくことがよかろうと」
「なにっ,最初から逃げる用意をしておくというのか。お前たちの船はそうするがよい。俺の船はもとの櫓でかまわぬ」
「大将たるもの,駆けるべきは駆け,引くべきは引く,をよしといたしまする。片方しか知らぬのは猪(いのしし)武者でございますぞ」
「フン,猪でも鹿(かのしし)でもよい。攻めに攻めて勝つのが心地よいのだ」
大阪市福島区福島二丁目に「逆櫓乃松址」の石碑がある。
址だというのは次のような経緯による。大阪市のHPで福島区の名所・旧跡を紹介したページから,この石碑の由来を記した部分を読んでみよう。
江戸時代の地誌「摂津名所図会」によれば、幹の形が蛇のような、樹齢千歳を超える松が生えていたという。この松を逆櫓の松と呼んだ。明治の初めには七尺程の根を残していただけと伝えられ、その根も明治42年の北の大火で焼失した。大正15年4月福島史談会が「逆櫓の松跡趾」の碑を建てたが、昭和20年3月13日の大阪大空襲でその碑も一時行方不明になっていた。昭和33年、ある運送会社が地ならしをしていたところ碑が出てきたので、その会社前の歩道上に建てられていたのを昭和49年5月地元有志によって、現在地に移設された。
写真右手の喫茶店,ウィンブルドンは,ぐるなび大阪版でこの史跡を次のように解説している。
逆櫓の松
文治(ぶんじ)元年(1185)正月、源頼朝の命をうけて、平氏討伐のため京都を出発した義経は屋島する平氏を急襲するため、当地で準備を進めていた。
すでに兄頼朝との間に対立が生じており,蟠りをとくため最前線で決死の覚悟をしていた義経は、頼朝からつけられていた参謀格の梶原景時(かじわらかげとき)が進言する船の前後進自在の逆櫓とりつけをめぐって論争。義経はあくまで、前進主張、ゆずらなかった。
そして2月17日夜半、暴風雨の中を手兵150ばかりと5隻の舟に分乗、早朝渡航に成功、翌19日屋島の合戦で大勝した。
この論争が当地(大阪市福島区福島2丁目)の下であった伝承からきている。
グルメサイトにおいて,味覚をそそるだけでなく知的好奇心をも刺激する良心的なこの店は,史跡にちなんだ銘菓を作り上げた。
【商標登録】登録番号55215881号 商標 「逆櫓」
史跡【逆櫓の松】の東隣にある弊店では、悲運の武将義経を偲び、松をかたどった抹茶風味のあんまき菓子【逆櫓 さかろ】を作りました。
お召し上がり下さいませ。
訪れた日は店休日で味わうことができなかったが,歴史の現場でいただく銘菓はまた格別だろう。血気盛んな義経の姿に喝采を送るもよし。その子供じみた言葉に後の悲劇を予感するもよし。見てよし食べてよしの史跡である。
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