幕藩体制において譜代大名は要地に配される,と学習した記憶があるが,尼崎藩はその典型だろう。大坂に隣接するこの地は経済的にも軍事的にも要となるため,城持ちの譜代大名が入封した。戸田氏,青山氏を経て,松平氏の治世は160年間続いた。松平と名乗る大名は数多いが,尼崎は櫻井松平家,櫻井家である。
尼崎市大物町二丁目の深正院(じんしょういん)に「松平忠喬(ただたか)の墓」がある。深正院は櫻井家の菩提寺である。同家としては忠喬が初代の尼崎藩主である。
櫻井家は,徳川家康から4代前の先祖である松平長親の子・信定を初代としている。宗家からはずいぶん遠い親戚であるが,第10代の忠喬が宝永八年(1711)に摂津尼崎に入封して以降7代に亘って藩主を務めている。忠喬は信濃飯山藩主,遠江掛川藩主を経て尼崎にやってきた転勤大名だが,櫻井松平家を尼崎に根付かせた中興の祖というべき殿様であった。
墓碑には「霊台院殿 四品石州刺史仁誉興徳道融大居士」とある。四品は忠喬が従四位下に叙されたこと,石州は石見国,刺史は国守の唐名,すなわち忠喬が石見守に叙任されたことを示している。
当時の尼崎藩4万石の領域は,現在の尼崎,西宮,神戸のあたりで,経済的な豊かさを誇っていた。現代の地図なら平成の大合併顔負けの大自治体である。もっとも,明和六年(1769)には西宮や兵庫津など藩領の一部が幕府によって収公されてしまうのだが…。
収公による経済的打撃は大きく,その影響について,大阪大学名誉教授の作道洋太郎氏は次のように悔しがっている。(『大阪春秋』第58号「尼崎藩の貨幣と金融」)
歴史に「もしも」は禁句と言われるけれども,尼崎城が経済的基盤が弱体化した「裸城」ではなく,その繁栄を維持していた上で維新を迎えていたならば,兵庫県庁が置かれた神戸との関係も,また尼崎と大阪との状況も現在とは違った結果が生まれたものと考えられる。
ところで,深正院にはもう一つ大きな墓がある。
こちらは最後の藩主・松平忠興の墓で,明治になって姓を櫻井と改め,近代の華族制度のもとでは子爵となる。この殿様の事蹟は改めて述べることとしよう。
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