映画『桜田門外ノ変』を見て、水戸藩と彦根藩の関係について、俄かに興味が湧き調べる気になった。するとこのようなニュースに出会った。
水戸市長、滋賀で井伊家の墓参り 安政の大獄わだかまり解け
幕末の大老井伊直弼が尊王攘夷派の水戸藩士らを弾圧した「安政の大獄」に絡み、藩士の故郷である水戸市の加藤浩一市長が10日、滋賀県彦根市の井伊家の菩提寺「清凉寺」を訪れ、大老井伊の先祖の墓参りをした。
加藤市長は「念願のお参りができ、わだかまりも解けた」とほっとした表情。彦根市の獅山向洋市長は「『雨降って地固まる』で、今後、両市とも気持ちよくお付き合いできそうだ」と話した。
獅山市長は2009年、開国から150年を迎えたのを機に、歴史を再評価する意味を込めて、大獄で刑死した安島帯刀ゆかりの水戸市のほか、吉田松陰ゆかりの山口県萩市、橋本左内ゆかりの福井市などを墓参した。
返礼として、加藤市長は10年3月、東京都世田谷区の豪徳寺にある大老井伊の墓を参った。その際、加藤市長は「彦根市も訪ねたい」として、今回が初となる公式墓参が実現した。
2010/10/10 17:35 【共同通信】
歴史の重みとはこういうことか。当時、主君を水戸浪士等に殺された彦根藩士はずいぶん激昂したようだ。長い年月を経てもわだかまりがあったのは当然のことだろう。
水戸市三の丸一丁目に水戸藩校の弘道館がある。規模は日本最大の約178,000㎡だった。国の特別史跡である。今に残る正門、正庁、至善堂は国の重要文化財である。
写真は正庁の玄関で、有名な「尊攘」(松延年書、安政3年)の大書を見ることができる。水戸藩の考えを端的に示している。しかし誤解してはならないのは、尊王攘夷がテロリズムではなく民族主義的な国づくりの姿勢を示す語句だということだ。対外的な危機を前にして民族主義が高まるのは古今東西共通である。そして民族主義という思想とテロという手段とはまったく別物である。
弘道館の裏の八卦堂の中に「弘道館記碑」がある。ずいぶん傷んでいるが昭和20年8月2日の戦災によるものだ。どのようなことが書いてあるのだろうか。但野正弘『水戸烈公と藤田東湖「弘道館記」の碑文』(水戸史学会、錦正社)から一部を書き下し文で引用しよう。
嗚呼、我が国中(こくちゅう)の士民、夙夜(しゅくや)解(おこた)らず、斯の館に出入(しゅつにゅう)し、神州の道を奉じ、西土の教へを資(と)り、忠孝ニ无(な)く、文武岐(わか)れず、学問事業、其の效(こう)を殊(こと)にせず、神を敬ひ儒を崇(とうと)び、偏党(へんとう)有る無く、衆思を集め、群力を宣(の)べ、以て国家無窮の恩に報いなば、則ち豈(あに)徒(ただ)に祖宗の志(こころざし)墜ちざるのみならんや。神皇(じんのう)在天の霊も、亦(また)将に降鑒(こうかん)したまはんとす。
もうお気付きだろう。教育勅語の思想はすでにここに現れている。これが国づくりなのだ。明治国家は外交や貿易をさかんに行う一方で民族主義的な国づくりを行った。水戸藩の思想と彦根藩・井伊直弼の決断はどちらも明治国家の原点だったのだ。
弘道館は水戸藩のみの名称ではない。他にもいくつかの藩校が同一名称だが彦根藩校もその一つである。彦根の弘道館には井伊直弼に開国論を説いた儒者、中川禄郎がいた。弘道館の藤田東湖と中川禄郎、国づくりの方途は異にしても藩を思う気持ち、日本の行末を思う気持ちは同じだったかもしれない。
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