藤田東湖は幕末の尊王攘夷をリードした水戸学の大成者で、尊攘の志士たちにとって見れば神様のような存在だ。と思ったら本当に神様だった。
水戸市常磐町一丁目の常磐神社境内に摂社の「東湖神社」がある。御祭神は藤田東湖命で、昭和16年の創建である。
写真に写る説明板によると学業成就と知恵授けの御神徳があるようだ。しかし、藤田東湖は単なる学問の神様ではない。日本の進むべき道を示す先達であった。
貴族院議員や枢密顧問官を務めた薩摩藩出身の海江田信義は若き日に藤田東湖に学んだ。その時の様子を信義は口述筆記により回想録『維新前後実歴史伝』(巻1、東京大学出版会)に残している。
信義はペリー来航について次のように問うた。
先生にして若し浦賀の事に当らは、果して若何か処辨せしや、敢て先生の智略を聞かん。
すると…
翁曰く、善かな問へること、対談の席上、ペルリの首級は、必す余の白刃一閃の下に落たらんのみ、果して然らんには、余も亦当日当に死すべし、然れとも彼のペルリを斫(きり)て、而して又自から死するもの、是れ余か一片の正気なり、是に於て乎、余は已に死して跡なしと雖も、此一片の正気たる、横に全国に充満し、竪に百歳に伝遺するや必せり、而して正気の磅礴(ほうはく)する所、蓋し国をして富ましめ、兵をして強からしむるの大本たり、国苟(いやしく)も富み兵苟も強し、外患何そ恐るゝに足んや、余は当日の事を憶ふ毎に、自から歎惜(たんせき)に堪へさるのみと。
東湖先生の言う正気(せいき)とは、国を富ませ兵を強くしようとする気概であった。そして実際に薩長の明治政府によって富国強兵の政策が推し進められていく。歴史の源流の一つがここにあったのだ。
幕末の開国に際して幕府の対応を嘆いた東湖先生、菅首相の「平成の開国」はどのように評価するのだろうか。国民全体に対して、もっと日本の行末に関心を持って真剣に考えろとお叱りになるに違いない。
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