史跡を巡っていると「謡蹟」に出会うことがよくある。謡曲の舞台となった場所に遺された史蹟を楽しむには、当然ながら謡曲の知識が必要だ。しかし、あいにく能は見たこともないしストーリーも知らない。ブログの記事にしようとして初めて調べて面白さに気付くくらいだ。歌舞伎は一度見たことがあるが、所作の格好良さに惹かれるだけで、筋がよく分かっていない。まして講談なんぞ興味さえない。
流山市流山二丁目に「金子市之丞・三千歳之墓」がある。冒頭で言い訳ばかり書き連ねたのは、この二人が何者なのかさっぱり分からなかったためだ。
神社のような屋根付きの立派な墓には千羽鶴が供えられている。今でも随分と慕われているようだ。ここは流山市教育委員会に教えてもらうしかない。『流山のむかし』を読んでみよう。
地元の言い伝えによりますと、金子市之丞は義賊だったといいます。
明和六年(一七六九)金子屋(一説には灘屋ともいわれます。)の一人息子として、市之丞は生れました。幼少の頃、家が傾きかけたところに父を失い、博奕に手を出すようになりました。成長するに従ってますます本格的なものとなり、母の叱責にもかかわらず、遂には家屋までも失ってしまいました。そして、とうとう盗賊にまで身を落としてしまいました。しかし、盗賊とはいっても、金持ちの家からしか盗み出さず、また、盗んだお金や品物を貧しい家にばらまいて歩きました。そして、いつからか、「ビン小僧の金市」と慕われました。その後、金市は捕えられ(一説には自首したともいいます。)、処刑されました。地元の人たちは、ひそかに彼の生家に近い閻魔堂に葬ったというものです。
また、後年には、金子市之丞の墓にお参りしますと、「頭の病気が治る」とか、犯罪者の家族だと、「刑が軽くなる」とかいわれるようになりました。
金子市之丞の墓の右側にある三千歳の墓は、明治時代に入り、粋な人たちの計らいで建てたものといわれています。
市之丞をはじめ、河内山宗俊、片岡直次郎、森田屋清蔵、闇の丑松、花魁の三千歳の計6人の物語を「天保六花撰」といい、講談や歌舞伎で人気を博した。悪事や色恋、人情がふんだんに盛り込まれたストーリーらしい。講談は二代目松林伯円、歌舞伎は河竹黙阿弥の作である。
河竹黙阿弥なら知っている。「知らざあ言って聞かせやしょう」泥棒を描いたら日本一。白浪物の大御所だ。巨匠には泥棒をも神様にしてしまう力があるのか、実在の市之丞自身の行いが本当に立派だったのか。いや、ここで史実を詮索するのはよそう。講談を聞いてみたくなった。
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