この日の昼食はうな重だった。歴史ゆかりの町で美味なるものを食す。知的好奇心と食欲とを同時に満足させ、さらに酒が入れば時空の壁が取り払われた心地となって歴史を生きていることを実感する。時は2004年、さらぬだに人気の新撰組は大河ドラマの影響でますます盛り上がっていた。手にしたチラシによると食事をすると新撰組記念グッズがもらえるという。近藤勇のかわいいキャラ入りの手帖をいただいて史跡に向かった。
流山市流山2丁目に「新撰組流山本陣跡(近藤勇陣屋跡)」がある。
石碑の右に「長岡屋土台石」がある。新撰組が本陣とした豪商、長岡屋七郎兵衛の屋敷の遺物である。当時の新撰組の動静について碑文に語ってもらおう。
文久三年春以来京師にあって勇名を馳せた新選組は慶応四年正月鳥羽・伏見の一戦に敗れて江戸に帰り新たに甲陽鎮撫隊を結成、同三月甲州路勝沼に出陣し官軍と交戦、これまた敗れて総州流山に再挙をはかった。
当時の流山は水陸交通の要衛、醸造業の地として知られ、各種問屋、船宿、旅籠等軒をつらね本多氏下総領管理の「加村役所」も加村台にあってその繁栄は近隣に比すべきものがなかった。
甲陽鎮撫隊は三月二十日ごろ流山に入り、酒造家長岡屋(当所)を本陣とした。日増しに傘下に加わる同志隊員を諸家に分宿させ、旬日にしてすでに一大勢力となっていた模様である。
一方官軍においては、その東山道先鋒隊の一部が結城方面の鎮圧に向う途次、この風聞を耳にした。直ちに香川敬三指揮する一隊流山に来攻、策を以て隊長近藤勇(大久保大和と変名)を誘い、縛に就かした。時に慶応四年四月三日の夕刻である。
一説に、近藤は、兵災の郷民に及ぶことを憂い、みずから敵手に身をゆだねて、決戦を避けたという。
老松古椎に往時を偲んでここに遺跡の石碑を建てる。
昭和五十一年三月 流山市観光協会
かつて新撰組は2週間ほど駐留していたと思われていた。しかし正確には、新撰組が流山に入ったのは4月2日未明のことだという。3日夕刻には近藤勇が捕縛、4日に板橋へ連行され25日に処刑される。近藤の滞在が2日間ほどだったにしても、自らの意志でやってきた最後の地が流山であった。
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