誰でも普通お墓は一つだが、個人のお墓がたくさんあるというのは、故人を慕う人が多いからだろう。新選組局長の近藤勇もその一人だ。近藤勇は斬首されたから首と胴は別になったが、それぞれ複数の塚があるというから謎めいた話でもある。
北区滝野川七丁目の寿徳寺境外墓地に「近藤勇と新選組隊士供養塔」がある。区指定有形文化財(歴史資料)として保護されている。
この供養塔は明治9年(1876)5月に隊士の一人である永倉新八が発起人となって造立したものだ。正面に「近藤勇 冝昌 土方歳三義豊 之墓」と刻まれている。近藤勇の諱は昌宜が正しいが、冝昌となっている理由は不明だそうだ。
文化財の供養塔の右側に「勇生院頭光放運居士」と戒名が刻まれた近藤勇の墓がある。この墓に関して寿徳寺が発行した『新選組と近藤勇文集』所収の浅沼政直「近藤勇の胴体をめぐる秘話」に次のような記載がある。
昭和四年の春の日の夕方、勇と土方の巨大な石塔の隣りに現存する小さい墓石(慶応四年四月二五日と刻まれている)の下から、首のない胴体が発見された。深さは三尺位で、黒赤色のボロボロの布のきれと一緒に発見された。石山氏達は、それを町会の役員と共に谷端川(板橋駅東口を流れていた)の水で洗い、下須瓶に入れて、同じ墓石の下に再び埋めたという。
石山氏とは近藤勇が最後の夜を過ごした石山亀吉邸の子孫の方である。慶応4年(1868)4月25日に板橋刑場で近藤勇は斬首された。首は京の三条大橋附近で梟首された後に行方不明となっている。刑場があったのは旧中山道沿いの下の写真の辺りらしいがよく分からない。
慶応4年4月3日に下総流山で新政府軍に捕縛された近藤勇は、翌4日に東山道鎮撫総督府のあった板橋に連行される。
板橋区板橋3丁目に「板橋宿平尾町脇本陣跡」がある。
近藤勇が4月4日から処刑前日の24日まで幽閉されていたのが、この脇本陣の豊田家であった。
JR板橋駅の東口あたり、滝野川地区は近藤勇ゆかりの地ということで、毎年「滝野川新選組まつり」が行なわれている。写真の板橋駅東口商栄会は滝野川さくら通り商栄会となってまつりを盛り上げている。今年は5月1日(日)に行われるそうだ。
近藤勇の墓がいくつもあることは冒頭で触れた。管見の及ぶ限り列挙してみよう。
北区 寿徳寺境外墓地 近藤勇と新選組隊士供養塔 北区指定有形文化財(歴史資料) 側に胴塚がある。
三鷹市 龍源寺 近藤勇墓 都指定文化財(旧跡) 生家の宮川家と近藤家の菩提寺 実兄の宮川音五郎とその息子でのちに勇の婿養子となった勇五郎が首のない遺骸を埋葬したという。子母澤寛『新選組始末記』による。
岡崎市 法蔵寺 近藤勇首塚 晒されていた首を同士が持ち帰り、近藤が敬慕していた称空義天大和尚に埋葬を依頼したという。
会津若松市 天寧寺 近藤勇之墓 晒されていた首を何者かが持ち帰りこの地に埋めたという。
米沢市 高国寺 近藤家之墓 晒されていた首をいとこの近藤金太郎が持ち去って焼き、自分の菩提寺に埋葬したという。
京都市 壬生寺 近藤勇遺髪塔
荒川区 円通寺 死節之墓 荒川区史跡 旧幕軍戦死者の供養塔で近藤勇の名も刻まれている。
近藤勇は豊田家に幽閉されたとき、辞世の詩を作った。(原文は漢文)
孤軍援け絶えて俘囚となる 顧みて君恩を念えば涙さらに流る
一片の丹衷(たんちゅう)よく節に殉ず 雎陽千古(すいようせんこ)これ吾がともがら
他に靡(なび)き今日また何をか言わん 義を取り生を捨つるは吾が尊ぶ所
快く受けん電光三尺の剣 只まさに一死をもって君恩に報いん
忠節を尽くすとか義のために生きたことに現代人は尊敬のまなざしを注ぐ。それは時代劇の中でしか見ることのできない歴史的な心性なのだろうか。いや、自分の信念を貫くことは昔も今も変わらぬ美しい生き方であろう。春になれば新選組の季節になる。今から楽しみな気がしてきた。
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