堤防や橋梁など大規模工事において人柱が立てられたとの伝説を見かけることがある。もちろん古い話で虚実を確かめようもないのだが、荒唐無稽に思えないところに伝説が今に語られる理由がある。難航を極め出来そうに思えなかった工事が完成した。それが人柱のおかげだと聞けば納得もし、感謝の念も一層強まるのである。
奈良市高畑町の菩提院大御堂は通称「十三鐘(じゅうさんがね)」といい、伝説「三作(さんさく)石子詰(いしこづめ)」の旧跡である。
十三鐘とはこの梵鐘のことだ。入口近くにある興福寺作成の説明板を読んでみよう。
鐘楼に掛かる梵鐘は永享八年(一四三六)の鋳造で、かつて昼夜十二時(とき)(一時は今の二時間)に加えて、早朝勤行時(明けの七ツと六ツの間)にも打鐘されたところから、当院は「十三鐘」の通称でも親しまれている。
では三作石子詰とは、どのような伝説なのか。菩提院境内にある説明板を読んでみよう。
興福寺十三鐘傳説石子詰について
この一帯は、菩提院と云い、別名十三鐘とも云います。
日本最初の大御堂(本堂)は今から千二百余年前、玄昉僧上の建立と伝えられます。その後、火災に逢い現在の堂は正親町天皇の御建立であります。御本尊は阿弥陀如来座像(鎌倉時代)です。
ある日、興福寺の小僧さん達が大勢この堂で習字の勉強をしていた処、一匹の鹿が庭へ入り小僧さん達の書いた紙をくわえたところ、その小像の一人、三作が、習字中に使用していた、(けさん=文鎮)を鹿に向って投げました。ところがこの一投の文鎮は鹿の急所に命中し、鹿はその場にて倒死しました。当時、春日大社の鹿は、神鹿とされ「鹿を殺した者には石詰の刑に処す」との掟があった為、鹿を殺した三作小僧は子供と云えども許されることなく、三作小僧の年、十三才にちなんだ一丈三尺の井戸を堀り、三作と死んだ鹿を抱かせて井戸の内に入れ、石と瓦で生埋になりました。三作は早く父親に死別し、母一人、子一人のあいだがら、この日より母「おみよ」さんは、三作の霊をとむらう為、明けの七つ(午前四時)、暮の六つ(午後六時)に鐘をついて、供養に努めましたところ、四十九日目にお墓の上に観音様がお立ちになられました。その観音様は現在大御堂内に稚児観世音として安置されています。子を思う母の一念せめて私が生きているあいだは線香の一本も供える事が出来るが、私がこの世を去れば三作は鹿殺の罪人として誰一人香華(こうげ)を供えて下さる方はないと思い、おみよさんは紅葉の木を植えました。当世いづこの地へ行っても「鹿に紅葉」の絵がありますのも石子詰の悲しくも美しい親子愛によって、この地より発せられたものであります。又奈良の早起は、昔から有名で自分の家の所で鹿が死んでおれば前述のような事になるので競争したと云われます。今でも早起の習慣が残っています。同境内地に石亀がありますのは「三作の生前は余りにも短命で可愛想であった次に生れる時は亀のように長生できるように」との願いにより、その上に五重の供養塔を建てられたものであります。南側の大木は銀杏とけやきの未生の木ですが、母親が三作を抱きかかえている様であると云われています。何時の世にも親を思う心は一つ、こうして、三作石子詰の話が、今もこのお寺に伝わっているのです。
よくできた伝説だと感じるが、どこまでが真実なのだろう。近松半二作の「妹背山女庭訓」に、三作が石子詰になりそうになる場面が出てくる。明和8年(1771)初演である。伝説そのものは以前からあったが、有名にしたのはこの浄瑠璃だ。
鹿を殺して死罪とは物語ならではだ、と思ったらそうでもない。『奈良伝説探訪』(三弥井書店)に掲載の解説(文・橋本章彦)を読んでみよう。
神鹿殺害における興福寺衆徒による検断の歴史的実態は如何なるものであったのであろうか。いま室町時代の興福寺の記録である『大乗院寺社雑事記』によってそのことを探ってみよう。
文明十年(一四七八)五月十五日に「三ヶ大犯とは、児童、神鹿、講衆のことなり」とあり、神鹿殺害が、三つの大犯罪の中に加えられている。ちなみに、ここにいう講衆とは、興福寺の僧侶のことである。
文明五年(一四七三)五月二十日には、「神鹿殺害の者、三人これを切らるという」という記述が見え、神鹿を殺した人は、実際にも死罪に処せられたようである。
興味深いのは、文明六年(一四七四)五月十二日の記事である。
西京、神鹿殺害人在所へ講衆進発下向せり、植松郷と云々、宝来の披官人なり、兄弟両三人も悉く山陵方より検断、闕所せしめおわんぬ、植松郷は山陵知行の故なり、進発厳重なりと云々
とあって、検断が本人だけでなく兄弟にまでおよんでいる。同様のことはほかにもあり、ときには処罰が六親にまでおよんだ事例が見えるから、神鹿殺害の所断は極めて厳しいものであったことをうかがい知ることができよう。
石子詰はともかく死罪はありえたのだ。史実を踏まえて伝説は形成される。厳罰の記憶が自分たちへの強い戒めとなって伝説を育てたのだろう。とすれば人柱伝説もそうしたことがあったというのか。涙を誘う史跡である。
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