五重塔を眺めるとほっとする。何故かは分からない。日本の原風景のように思っているのだろうか。田園の向こうに塔が見えると、いつまでもこの風景が残るようにと祈りに似た気持ちになるものだ。しかし今日の写真は、あまりにも近づきすぎたため無理なアングルとなったが、塔の巨大さだけは伝えたい。
奈良市登大路町に「興福寺五重塔」がある。応永33年(1426)頃建造で国宝である。
この五重塔は50.1mで、東寺五重塔(約55m)に次いで日本で2番目の高さを誇る。ちなみに史上最も高かったのは相国寺七重塔で36丈(約109m)あったという。
現在日本を代表する文化財となっている興福寺五重塔も、かつて消失寸前の危機があった。法相宗大本山興福寺の公式ホームページ(トップページ>興福寺について>興福寺の歴史>略史4)に次のように記されている。
幕末から明治維新時にかけての興福寺は神仏分離によって動揺した。すなわち、長年にわたる神仏混淆の信仰形態を拒絶され、これによって一乗院・大乗院をはじめ、他の院家も速やかに復飾して春日大社の新社司となり、ほかの諸坊も新神司として春日社への参勤となった。さらに明治3年(1870)の太政官布告によって境内地以外すべて上知ということになった。興福寺は所領を失い、最終的には堂塔の敷地のみが残されるという惨状となり、加えて宗名・寺号も名のれず、まさに廃寺同様の様相を呈した。神仏分離の施策は廃仏毀釈につながり、寺の破壊や撤去が押し進められた。興福寺では築地塀・堂宇・庫蔵等の解体撤去、諸坊の退転が相次いだが、この頃、五重塔が250円で買手がつき、三重塔は30円であったという。しかし、幸いにも両塔無事で今に遺された。
さらに北康利『匠の国日本 職人は国の宝、国の礎』(PHP新書)には次のような記述がある。
四条県令の命令で、興福寺の五重塔は塔の頂上に綱をかけられ万力で引き倒されることとなるが、堅牢だったことが幸いし、どうにか持ちこたえた。そこで次は焼き払うこととなり、塔の周囲に山のように柴が積まれ、もう火をつけるばかりとなったが、周囲の住民の反対で中止となっている。だが、誤解してはいけない。彼らは五重塔を惜しんで反対したのではなく、類焼する危険性があったため反対したにすぎなかった。民衆も時の流れの外にはいなかったのだ。その後、県令四条隆平は移動となり、興福寺の五重塔はかろうじてその優美な姿を今に残すことができた。
四条隆平(たかとし)は明治4年から6年にかけての奈良県令で、戊辰戦争では北陸道鎮撫副総督を務めた公家である。父は七卿落ちのメンバーである四条隆謌(たかうた)、四条家は四条流包丁式に家名を伝える名家である。
文化財を破壊する蛮行だと非難するのは容易いが、それまでの寺院勢力が大きかったことへの反動とみることもできよう。大きすぎたからか、県令が移動したからか、保存を主張した人がいたからか、いずれにしろ私たちは五重塔を眺めることができる。同じ眺めるならば猿沢池からがよいだろう。
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