サッカーJ2、ファジアーノ岡山のホームは「kankoスタジアム」という。以前は岡山らしく桃太郎スタジアム、モモスタと呼んでいたが、岡山県がネーミングライツを公募し、尾崎商事株式会社が年間1千万円で平成27年まで権利を取得している。尾崎商事というのは「カンコー」ブランドで知られる学生服の会社である。それで今スタジアムはカンスタと呼ばれている。
カンコーとは何か。観光か。ならば後楽園に行けばよい。慣行か。なるほど伝統は大切だ。敢行か。敢えて行う、かっこいいぞ。いや、カンコーとは菅公、菅原道真公のことであった。学生服だけに学問の神様だ。道真はまた敬意を込めて菅家(かんけ)とも呼ばれる。
奈良市雑司町手向山に手向山八幡宮が鎮座する。長く東大寺の鎮守社で東大寺八幡宮と称していたが、神仏分離以来独立している。
手向山といえば百人一首24番を思い出す。
このたびは 幣(ぬさ)もとりあへず 手向山(たむけやま) 紅葉(もみじ)の錦(にしき) 神のまにまに 菅家
写真中央の歌碑はこの歌のものだ。少し見にくいが歌碑の前に形の良い石がある。これについて『大和の伝説』(大和史蹟研究会)は次のように記している。
奈良の手向山神社境内、若宮の拝殿わきに菅公腰掛石というのがある。かの「このたびは」という歌をよむとき、菅公が腰をかけた所だという。
また、手向山八幡宮の由緒書にも次のように記されている。
百人一首にある「この度は 幣もとりあえず手向山 紅葉のにしき 神のまにまに」菅原道真公の詠まれた詩はこの神社を詠んだものである。この時に腰かけた石が「菅公腰掛けの石」とし現在も残っており、学問成就の石として信仰を集めている。
なるほど、それで腰掛石の前には鳥居があるのか。菅公ゆかりの神社の多くは天満宮だが、この神社は八幡宮である。祭神に菅公は含まれていない。この石こそが学業成就のパワスポだったのだ。
この歌は『古今和歌集』巻9(羈旅)に「朱雀院の奈良におはしましたりける時にたむけ山にてよみける」として登場する。『田辺聖子の小倉百人一首(上)』(角川文庫)では次のように紹介されている。
この歌は昌泰元年(八九八)十月二十日、宇多上皇が吉野の宮滝へ出かけられたとき、お供した道真がよんだもの。
たむけ山は固有名詞とは考えなくてよかろう。神の鎮まります坂や峠のことである。旅の安全を祈る峠は、昔は神聖な場所であった。
あえて具体を考えるならば、山城と大和の国境付近を想定することが多いようだ。この後に続く長い旅路の安寧を祈念した歌なのである。田辺聖子さんに歌意を教えてもらおう。上記の著作からの引用である。
このたびの旅は
あわただしく発ちましたから
幣の用意もできませなんだ
手向山の神よ
このみごとな美しい紅葉の錦を
私の捧げる幣として
み心のままにお受け下さい
神に捧げる幣(ぬさ)がないだいって? じゃ、この美しい紅葉でどうだい。とスケールは大きく色はきらびやかに一挙に場面転換する。ああ、粋だねえ。しかも機転が利くねえ。
しかし神社で見かけるあの白い幣(ぬさ)と錦の紅葉(もみじ)がどうもつながらない。すると丸谷才一『新々百人一首』(新潮社)が次のように教えてくれた。
「幣」とは神に祈るとき献げるもので、麻、木綿(ゆふ)、紙、帛(はく、上質の絹布)、布、などを用ゐた。旅に出るとき、それを四角に細かく切つて幣ぶくろに入れたものを携へ、道祖神の前で撒きちらし、手向けたのである。後に、紙を切って棒につけたものが用ゐられるやうになるが、それを頭に置いたのでは、たとへば例の菅原道真「このたびは幣もとりあへず手向山もみぢのにしき神のまにまに」は意味がわからなくなる。
紅葉が散るのを奉幣にたとへる技法は、一つにはイメージが豪奢なため、さらには和歌の核心のところにいつもあつた呪術的意識にかなふため、すこぶる喜ばれた。しかしそのなかで最もすぐれてゐるのは、
紀貫之
秋の山もみぢを幣と手向くれば住むわれさへぞ旅心地する
で、これは道真の詠よりずつと上だらう。第四句「住むわれさへぞ」で事情がくるりと旋回するあたり、さすがに玄人の藝である。
さすがは丸谷先生、深いです。あちこちの名所旧跡ブログにて書くわれさへぞ旅心地する、という気分です。秀歌は時代を越えて人の心を動かすものだ。江戸時代に大田蜀山人先生が次のように詠んでいる。
このたびは 幣もとりあへず 手向山 まだそのうへに 賽銭(さいせん)もなし
ああ、分かりやすい。やはり持つべきものは金か、いや、やはり歌心か。持つべきものを持って旅がしたくなってきた。
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