徳川か豊臣かと問われたら豊臣なのだが、それはおそらく、ないものねだりなのだと思う。一代で築き上げた豊臣の天下は秀吉の死後もろくも崩れ、十数年後にはお家そのものが滅んでしまう。
私は空想する。豊臣家に今少し柔軟性があったなら、時代の趨勢を読む力量があったなら、一大名として存続しえただろうに。織田家は大名として残ったではないか、子孫も氷上で活躍したではないか。「いやあ、徳川さんにはやられちゃいましたねえ。うちもいい線いってたんですけどねえ」などと先祖を述懐する豊臣秀なんとかさんが現代にいてもよかったと思う。
それだけに大坂の陣には強い関心がある。和議のチャンスはなかったのかと。豊臣派としては悔しいが、関連の史跡を巡って当時に思いを馳せるのみである。
四條畷市岡山二丁目に「忍陵(しのぶがおか)神社」が鎮座する。
拝殿の隣には比較的新しそうな覆屋(おおいや)がある。
中を覗いてみると…
立派な石室があった。「忍陵古墳」である。大阪府指定の史跡である。府教委および市教委、そして畷古文化研究保存会の連名による説明板を読んでみよう。
この古墳は、古墳時代前期(4世紀中ごろ)に築造された全長87mの前方後円墳です。標高36m、河内平野を一望できるこの場所に豪族が豪華な副葬品とともに葬られていたのです。
古墳の発見は、昭和9(1934)年の室戸台風によって忍陵神社が倒壊し、その再建工事中に石室が発見されたことにはじまります。
翌年、京都大学によって発掘調査されました。石室は、長さ6m・幅1mで、板状の石を丁寧に積み上げた立派な竪穴式石室でした。近年の研究で兵庫県猪名川産の石が使われていることがわかりました。副葬品は、紡錘車(ぼうすいしゃ)・鍬形石(くわがたいし)・石釧(いしくしろ)や小札(こざね)・剣・鉾・刀子(とうす)・矢じり・鎌などが見つかりました。(京都大学総合博物館蔵)。同年、地域の方々の熱意で覆屋が建てられ保存されました。
長い間石室を保護した覆屋ですが、平成7(1995)年の震災によって傾いたのを機に覆屋再建が計画されました。地域の方々の寄付を基盤に平成14(2002)年12月、覆屋が完成しました。このような貴重な竪穴式石室が保存され見学できるのは郷土の誇りです。
室戸台風、阪神・淡路大震災と、災害を乗り越えて史跡が保存されてきた。史跡があること、それ以上に史跡を自分たちの力で守ってきたことは、本当に誇らしいことである。さらに誇らしいことに、この神社は古い由緒を持ち、鎮座地である岡そのものが縁起の良い場所なのだそうだ。神社の説明板を読んでみよう。
当神社は今から一二〇〇余年前より当地域(岡山・岡山東・砂地区)の守護神 熊野皇大神(諸願成就・災難消除)、藤原鎌足公・大将軍神(日本最古の方除の神)・馬守大神(交通安全・家業繁栄)をおまつりしています。古くは津桙社(つぼこしゃ)・大将軍社(だいしょうぐんしゃ)・馬守社(まもりしゃ)と別々におまつりしていましたが明治・大正時代に三社が合祀され現在の社名に改称されました。又、醍醐天皇の延長五年に定められた延喜式(えんぎしき)神明帳(じんめいちょう)に記載された全国三一三二社ある延喜式内社(津桙神社)の一社でもある立派な鎮守様です。この歴史ある伝統文化にささえられてきた鎮守の森には、古墳時代前期(四世紀)の前方後円墳の石積石室が現存され、府下でも貴重な文化財であり戦国時代には当地が軍事上大へん重要な地に選ばれ、歴史上何度となく登場する処でありますが特に大阪夏の陣では徳川方の本陣が設営され徳川幕府成立に大きな役割を成した場所でもあり縁起の良い処として、御勝山(おかちやま)と称された由緒ある鎮守の森でもあります。
おっと豊臣派なのに徳川方ゆかりの御勝山を訪れてしまった。ここに陣を構えたのは秀忠だったという。慶長20年5月5日のことである。7日の岡山口の戦いで豊臣方が敗走し8日に落城となる。秀忠が燃える大阪城を遠望したのは、ここだったのか。
ところで「御勝山」といえば、大阪市生野区勝山北三丁目に御勝山古墳がある。ここには「史蹟岡山又御勝山」という標柱があり、大坂冬の陣の際に秀忠の陣所となったことを示している。
それにしても名称が似ている。四條畷市の岡山には夏の陣において秀忠の陣が置かれ御勝山と称されたという。生野区の岡山には冬の陣において秀忠の陣が置かれ御勝山と称されたという。
しかし、地図を見ると分かるが、生野区の御勝山は大坂城に近く、四條畷市の御勝山はあまりにも離れている。岡山口の戦いを考え合わせると、夏の陣も生野区の御勝山近くに徳川方が布陣していたとするのが自然だ。では四條畷の御勝山とは何なのか。岡山つながりから派生した伝説だったのだろうか。
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