谷町線の駅「喜連瓜破」は読めない。喜連川は知っていたから「きつれ」かと思った。4文字地名はあまり聞いたことがないと思ったら、喜連(きれ)と瓜破(うりわり)の合成駅名であった。さらに興味深いことに、喜連は摂津国、瓜破は河内国に属する。駅の越境合併である。駅を出て南に向かった。瓜破方面である。
大阪市平野区瓜破五丁目に「瓜破天神社」が鎮座する。画面左の木は中が空洞になっていた。その左の鎖柵の砲弾型支柱は「日露戦役記念碑」のものである。ここは地域の鎮守である。
御祭神は素戔嗚尊、菅原道真、平維盛である。やや異色の組み合わせだが、牛頭天王、天満宮、小松神社が合祀されていた時期があったことによる。小松神社については次回に取り上げるつもりだ。
「天神社」の名称は天神さまとして知られる菅原道真に由来するものではない。時代は飛鳥時代にさかのぼる。由緒について説明板で読んでみよう。
瓜破の歴史を記録し唯一現存する船戸録(元文元年、一七三六記)によれば、孝徳天皇の大化年中(六四五~六四九)当地に居住された高僧、船氏道昭が、五月晦日三密の教法観念の折、庵室に光る天神の尊像が現れたので、西瓜を割って霊前に供えた。道昭は朝廷に上申したところ方八丁の宮地を賜わり、この霊像を祭祀して当所の氏神と崇め奉り、西の宮又は方八丁の宮と称したのが当社の起源であると記されている。
道昭は百済系渡来人の船氏の出身で、遣唐使の一員として渡唐し玄奘三蔵に師事し、法相宗を日本に伝えた。行基の師でもある。また、日本で最初に火葬された人物としても有名である。その道昭さまが西瓜を割って天神にお供えしたというのが、「瓜破」の地名説話である。飛鳥時代にスイカがあったのかという詮索はしない。
大阪市平野区瓜破に「敬正寺」がある。真宗大谷派のお寺である。
この寺も道昭ゆかりである。『大阪あそ歩 まち歩きマップ集その1』瓜破コースの解説を読んでみよう。
大化年間(645~650)に道昭が創建した永楽寺は成本から瓜破霊園までを含む寺域を持ち、その永楽寺の塔頭のうち、唯一残ったものが敬正寺であると伝えられています。
(中略)
敬正寺に伝わる瓜破地名伝承は、道昭が旅から疲れて帰った際、村人が採りたての瓜を割って差し上げたところ、元気を回復し、村人のために永楽寺を建立したというものです。
天神社が伝える地名説話が霊験あらたかなことを示すのに対して、お寺が伝えるのは高僧と村人との交流である。村人が差し上げたのはマクワウリだろうか。道昭は天神に瓜を供えたのか、村人から瓜をもらったのか。いずれにしても「瓜」が介在することで関係性がつくられている。夏の暑い日の瓜はおいしい。このおいしさで知らない間柄でも一気に打ち解けるだろう。
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