外出先でのことである。急な雨に降られたが、あいにく傘がない。困って近くの民家を訪ね、「申し訳ありませんが、傘を貸してくださいませんか」と頼んだ。すると若い女性が出てきて、だまって新聞記事を差し出す。そこには「都会では自殺する若者が増えている」と報道されているのだ。「は? 傘は…。いえ、おじゃましました」と足早に立ち去る。
雨に濡れながら「どないなってん! おかしいんちゃうか」と腹を立てて家に帰り、妻にそのことを話すと「バカね。陽水よ。知らなかったの?」と言われる。
そこで、はたと気付くのだ。おのれがいかにヒット曲を知らなかったかを。それからはiTunesを聴きまくって知識を付けたのである。
のちに上司から「わが社は従来の事業に加え、新分野に進出しようと思うがどうか」と意見を求められ、「ただ一つだけの玉座を目指しましょう。最小限の荷物で」と答えた。すると上司は「二兎を追う者は一兎をも得ず、か。ゴールデンボンバーの『僕クエスト』だね」と満足そうにうなずいた。
しかし、待てよ。ゴールデンボンバーを知っている上司がいるとは思えないし、だいたい民家の娘も『傘がない』を謎かけにせずとも、言葉で説明すればよいではないか。雨に濡れて困っている人への応対として、いかがなものか。
新宿区新宿六丁目の大聖院に「紅皿の墓」がある。新宿区の史跡に指定されている。
太田道灌の山吹伝説は関東では有名だ。雨の降る中、蓑(みの)を求める道灌に山吹を差し出して怒らせ、後に悟らせた娘の名前を「紅皿」という。この史跡の意義については新宿区教育委員会が設置した説明板に頼ろう。
太田道灌の山吹の里伝説に登場する少女・紅皿の墓と伝承される中世の板碑(一基)、燈籠(二基)、水鉢(一基)、花立(二基)から構成される。
板碑は区内では唯一のものとなる中世の十三仏板碑である。また、板碑の前には十二代守田勘弥や歌舞伎関係者により石燈籠等が立てられ、その存在が広く知られるようになった。
伝説では、太田道灌が高田の里(現在の面影橋のあたりとされる)へ鷹狩に来てにわかに雨にあい、近くの農家に雨具を借りようと立ち寄った。その家の少女・紅皿は、庭の山吹の一枝を差し出し、『御拾遺集』の中にある「七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞかなしき」の歌にかけて、雨具(蓑)のないことを伝えた。後にこれを知った道灌は歌の教養に励み、紅皿を城に招いて歌の友とした。道灌の死後、紅皿は尼となって大久保に庵を建て、死後その地に葬られたという。
紅皿の墓とされる伝承が江戸時代中頃成立、展開し、幕末維新期を経て広まっていく様子を知ることができ、伝承、文献も含めた史跡として位置づけられ貴重である。
『御拾遺集』は『後拾遺集』の誤りである。醍醐天皇の皇子、兼明親王の「七重八重花は咲けども山吹のみのひとつだになきぞあやしき」という歌にちなんだ説話である。道灌よりも歌道に明るい娘、紅皿は実在の女性かなどと追究すると怪しくなるが、それが伝説というものだ。ここは、山吹伝説を人生訓として大切にしてきた人々の史跡である。
ちなみに石燈籠に「守田かん彌」とあるのが、説明板に登場する12代目守田勘彌で明治時代の歌舞伎役者である。歌舞伎作者の河竹黙阿弥に通称「紅皿欠皿」という継子いじめを題材にした作品があるが、守田勘彌の寄進はこの関係だろう。ちなみに歌舞伎の「紅皿欠皿」と道灌の山吹伝説に内容のつながりはない。
大聖院に上がる階段を「山吹坂」と呼んでいる。しかし、道灌と紅皿が出会った山吹の里はここではないようだ。説明板に従って面影橋へと向かった。
豊島区高田一丁目に「『山吹の里』の碑」がある。仏の姿は如意輪観音である。
ここでも豊島区教育委員会が文化財としての意義を分かりやすく解説しているので読んでみよう。
新宿区山吹町から西方の甘泉園、面影橋の一帯は、通称「山吹の里」といわれています。これは、太田道灌が鷹狩りに出かけて雨にあい、農家の若い娘に蓑を借りようとした時、山吹を一枝差し出された故事にちなんでいます。後日、「七重八重 花は咲けども 山吹の みの(蓑)ひとつだに 無きぞ悲しき」(後拾遺集)の古歌に掛けたものだと教えられた道灌が、無学を恥じ、それ以来和歌の勉強に励んだという伝承で、『和漢三才図会』(正徳二・一七一二年)などの文献から、江戸時代中期の十八世紀前半には成立していたようです。
「山吹の里」の場所については、この地以外にも荒川区町屋、横浜市金沢区六浦、埼玉県越生町などとする説があって定かではありません。ただ、神田川対岸の新宿区一帯は、昭和六十三(一九八八)年の発掘調査で確認された中世遺跡(下戸塚遺跡)や、鎌倉街道の伝承地などが集中しており、中世の交通の要衝地であったことは注目されます。
この碑は、神田川の改修工事が行われる以前は、面影橋のたもとにありましたが、碑面をよくみると、「山吹之里」の文字の周辺に細かく文字が刻まれているのを確認でき、この碑が貞享三(一六八六)年に建立された供養塔を転用したものであることがわかります。
山吹伝説は江戸中期以降に広まったこと、遺称地はいくつか有って定かではないことが分かる。伝説の多くがそうであるように、人々の願いがあって物語が生まれ、ゆかりの場所が設定されていったのであろう。埼玉県越生町については以前にレポートしている。山吹の花が美しい季節だった。
教養があって機知に富むが、ちとコミュニケーション能力に欠けるあの若い女性は、どこに住んでいたのだろう。おそらくは山吹の似合う越生のような里なのだろうが、現代の新宿であってもおかしくはない。紅皿は道灌の城に招かれたというから、シンデレラよろしくサクセスストーリーである。やはり持つべきは教養ということか。