「講釈師 冬は義士夏はお化けで 飯を食い」というそうだが、今年も忠臣蔵の12月14日となり、各地でイベントが行われた。赤穂市での「赤穂義士祭」、笠間市での笠間義士会によるパレード、鎌倉市浄明寺での「義士茶会」などである。9日には三次市で三次義士祭もあった。今年は元禄15年の吉良邸討入りから310年になる。しかし、事件当日の西暦は1703年1月30日であり、記念日は正確には1か月以上先である。とはいえ、年末でないと気分が出ないというものだ。
『仮名手本忠臣蔵』に早野勘平がいる。お軽とうつつを抜かして失態を演じる気の毒な人だが、名前を借りられた実在の義士、萱野三平はそうではない。
豊中市庄本町一丁目の光國寺の境内に「萱野三平之碑」と「妙法陽光洞廓之墓」と刻まれた三平の墓がある。
この碑の裏には三平の辞世が刻まれている。
晴れゆくや 日ごろ心の 花曇り 涓泉(けんせん)
「涓泉」は俳句をよくした三平の号である。碑の台座に三平の伝記が刻まれているので読んでみよう。
萱野氏は箕面山麓萱野村の郷士で、父重利は旗本大島出羽守の代官として領地を支配していた。三平は文事に秀でていたので、出羽守の推薦により浅野内匠頭長矩に召抱へられた。元禄十四年三月長矩が殿中松の廊下で吉良義央を刃傷したとき、三平は随行して江戸にいたので切腹介添への役に択ばれ、主君の最後を見とどけて直ちに赤穂へ報告に行った。赤穂城引渡しの後三平は萱野村の自宅に閑居していたが、討入り同盟に加わっていることを父に打明けていなかった。討入が迫ってきたので江戸行の許しを請うたところ、父重利は大島家の推薦で任官できたのであるから天下の法度を破っては将軍家の咎めを受けることは必定、大島家に不忠になるからと賛成もなかった。三平は其の道理に行詰って山科にいる大石義雄に事情を書き送り、元禄十五年十二月十四日主君の命日を択び自宅で自刃したのである。当時は鎖国時代で武士は戦を忘れて華麗奢侈な町人文化の栄えた時代で、かかる風潮の中に浅野家は断絶、浪士となった四十七士は武士道精神に生きて本懐を遂げたのであるから当代義理人情美談として長く後世に伝へられたのも宜なるかなである。当寺十五世住職が三平の姉を娶りし縁をもって墓あり。三平自刃の短刀手槍はいまなお寺宝として所蔵す。光国寺五百年三平二百六十五年を記念して荒廃せる墓碑を補修再建せしものである。 昭和四十一年十二月十四日
過日、大河ドラマ『平清盛』で窪田正孝演じる平重盛が「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず」と慟哭していたが、萱野三平もそのような気持ちで進退に窮してしまったのだろう。なお、正しくは一月十四日が自刃の日である。
「民法出デテ忠孝亡ブ」と穂積八束が指摘してから百年以上の歳月を経た昨今、もはや忠も孝も意味さえ分からなくなったかのようである。会社への忠誠は失われた感があるが、家族の絆が見直されていることからすれば孝心は命脈を保ちそうだ。
豊中市双葉町二丁目の新福寺の境内にも「赤穂義士 萱野三平重實之墓」がある。
4基の墓は右から三平本人、叔父の中村又兵衛重正、父の萱野七郎左衛門重利、兄の萱野七之助と並んでいる。この寺が主君である大島家の菩提寺というゆかりによるものである。大島氏は大島光義が信長、秀吉、家康に仕え大名(関藩)となったが、分割相続により旗本となった。大島光義-光政-義唯-義近-義也と連なる。三平を浅野家に推薦したのは大島出羽守義近であり、赤穂事件当時の当主は長崎奉行の大島義也である。
結果としては庶民から称賛された討入りであるが、徒党を組んで江戸表で騒動を起こすのは当然ながら御法度である。恩義のある主家、しかも長崎奉行である主君の顔をつぶすことはできぬから、父は息子に厳しく言いつけたのであろう。大石内蔵助との盟約も裏切れない。父に背くわけにもいかない。確かにつらい。
三平の墓は上記二つ以外に、故郷の箕面市、四十七士の眠る東京の泉岳寺にもある。人々が三平の苦悩に共感し、霊魂の安らかなることを願って建てたものだろう。箕面市の墓は昨年に箕面市の有形文化財に指定されている。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。