「サムサノナツハオロオロアルキ」とは「雨ニモマケズ」の一節である。これが冷夏のことだと知るのに時間がかかったし、冷夏によって本当に米不足になるのだと知るのにもずいぶん時間がかかった。平成5年の冷害は江戸時代ならば飢饉が発生したに違いない。あの時はタイ米でしのいだが、TPPに参加すれば、どんな異常気象でも外国産コシヒカリが食べられるというのか。
相生市相生に「北坂地蔵」がある。写真右方向に北坂峠がある。峠にお地蔵さんはよく見かける。多くは旅人の通行の無事を見守ってくださっているのだが、北坂峠のお地蔵さんは別の意味があるようだ。
ここは自らを犠牲にすることをいとわず、社会の公正を求めて決然と立った義民の史跡である。地蔵前の説明板を読んでみよう。
相生市史跡 北坂地蔵尊の由来
播磨國赤穂郡相生浦の家潰騒動
天明6年(1786年)諸国の米価は洪水の影響を受けて大凶作となり、翌7年に入ると米価は平常の4~5倍の高値となった。
そのため、漁業を生業としていた相生村ではその日の飯米にも窮することとなった。
赤穂郡加里屋奉行に米穀の貸与を申し入れたが、赤穂から米が届けられたのはわずかに10石ほどであった。そのため、村内の空気は次第に不穏となり、角谷池の堤に500人余が参集し、気勢をあげ、6月17日の夜、ついに家潰騒動となり、6軒の米屋、土蔵、納屋を破壊し、器物を打損じた。
この騒動により、奉行以下が来相し、光明寺を評定所として吟味したと言われている。
加里屋に連行された21人の吟味は、7月11日に終了し、首謀者とされた九助は、10月9日未明、赤穂の尾崎川原で死罪となり、相生村の北坂峠で獄門にかけられた。相生村民の96%、2,000人余が救われた。
村人は感謝し、末永くめい福を祈る為、天明7年10月に地蔵尊を祀りました。
平成14年12月
北坂地蔵奉賛会 相生市教育委員会 川原町自治会 上町地区農会
天明年間といえば、大飢饉、浅間山噴火、打ちこわしと、江戸期における生活の厳しさがもっとも顕現した時代との印象がある。米の不作は天明2年から始まり、翌3年には東北地方の冷夏に加えて浅間山の噴火により耕地の荒廃が進み、米価が高騰する。6年夏には大雨によって利根川などが氾濫し、江戸市中が浸水する。
米価はさらに急騰し、7年5月には江戸、大坂で打ちこわしが発生し、全国各地へと波及していく。相生浦の家潰騒動もそうした状況において発生した。家潰しの後の6月22日~24日にかけて、藩は1人5合の救米を行ったという。その代償として九助が獄門にかけられたのだった。
九助の鎮魂を祈って建てられた北坂地蔵。峠を行く相生浦の人々は格別の思いで手を合わせただろう。ここを文化2年(1805)と文化6年(1809)に測量のため伊能忠敬が通行している。天明の飢饉に際して心血を注いで窮民を救った忠敬はこの地蔵に気付いたであろうか。
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