落人といえば平家伝説だと思う。源平合戦のみならず、日本史上の数多の戦乱において、引き分けでなければ敗者はいた。残党狩りもあったことだろう。追及を逃れて山里深く落ち延び、生き長らえた者もいたに違いない。今日の史跡は落人伝説の里である。
相生市野瀬の集落入口に相生歴史研究会が建てた「野瀬邑文の碑」がある。
野瀬はかつて干瓢の生産で知られた地域で、寿司屋に卸す仲買人が大阪から買い付けに来ていたそうだが、これは落人とは関係ない。この地域の落人伝説は次のとおりだ。武田静澄『落人伝説の旅 平家谷秘話』(現代教養文庫)を読んでみよう。
七つの垣内
細長い相生湾は深く湾入しているので、波はいつも静かで、水深は八メートルもある天然の良港である。ここの野瀬に七垣内(ななかいと)と呼ぶ部落がある。
七垣内とは西垣内、下垣内、中垣内、紺屋垣内、小坪垣内、寺内御方垣内などの七つの小部落のことである。この部落の周囲は石垣でかこまれていて、東の入口を大木戸、西を出口といっているのが、砦のような印象をうける。伝説によれば、清盛の八男、従三位中将盛高の死後、賤野(しずの)の方が、太郎丸、千代丸、末王丸遺子と、殿本四郎太夫、小寺庄太夫、千葉十郎太夫、中八郎兵衛の従者をともなって落ちのびてきたという。
古文書はないが、五輪塔のくずれたのが残っていて、盛高の供養塔ではないかといわれている。
平盛高は清盛の八男だというが通史には登場しない。従三位中将なら平資盛がそうだが、平重盛の次男である。具体的な名前はたくさん出ているが、出ているだけに作り話のように聞こえる。
どうも、この話は眉唾だと主張するのが、相生歴史研究会の碑である。碑文を読んでみよう。
伝説の里 相生市 野瀬
野瀬邑文の碑
野瀬に残る平家の落人に関する系譜は、人皇第七十八代の頃とある。この系譜により野瀬を平家の落人とするには多くの疑問が残る。口碑に残るものとして、野瀬の集落は「平家落人の里」とも伝えるが、平家落人と成すよりは天慶四年(九四一)四国の伊予日振島で敗れた藤原純友の残徒三善文公が逃走中矢野岩窟山において殺害されたがその一部が住みついたとも考えられる。
よって古代からの野瀬集落の歩みし方を村誌の一部としてここに書き留め畢。
「人皇七十八代」とは二条天皇で、平氏政権の時代である。しかし、史実としての落人は承平天慶の乱に遡るのだ、という。藤原純友の部下という三善文公が矢野岩窟山で殺され、その残党が住み着いたということだ。三善文公については、『角川日本地名大辞典』の「八野郷(古代)」に次のように記されている。
平安期に見える郷名。「和名抄」播磨国赤穂郡八郷の1つ。「本朝世紀」天慶4年9月22日条によれば、播磨国衙は賊徒藤原文元・同文用・三善文公らと「赤穂郡八野郷石窟山」で合戦し、三善文公を殺している。現在の相生【あいおい】市矢野・若狭野にあたる。
『本朝世紀』とは平安末期の藤原信西による史書である。これによると、6月に藤原純友が滅ぼされた後、三善文公らは「備前国邑久郡桑浜」(今の瀬戸内市)に上陸して播磨に赴き合戦に及んだという。合戦の場所が「赤穂郡八野郷石窟山」(今の相生市)である。この時、藤原文元、文用は捕まえられなかったが、後に殺されている。他にも敗残兵はいたことだろう。
平家伝説かと思っていたら、藤原純友ゆかりの伝説であった。時代は違えど、敗者であることは共通している。しかし、惨めな敗者に非ず、したたかに生きる力のある敗者であった。所詮、世の中、生き延びた者が勝ちなのである。
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