大河ドラマ『八重の桜』で西郷隆盛をしているのが吉川晃司である。これがなかなか重厚ないい雰囲気を醸し出している。吉川晃司の御先祖様は吉川元春だという。ということは、どちらかといえば長州藩に近い血筋だが、薩摩の大物を演じている。今日は吉川元春の話である。
広島県山県郡北広島町海応寺に「吉川元春館跡」がある。越前一乗谷と並ぶ戦国大名の生活を明らかにする居館・庭園跡として意義がある。国の史跡で、特に庭園は名勝に指定されている。
吉川氏の城館遺跡はここだけにとどまらない。周辺には一族の城や菩提寺の遺跡が良好に残存している。まとめて「吉川氏城館跡」として国の史跡となっている。北広島町教育委員会が作成した『国史跡吉川氏城館跡ガイドブック』で、「吉川元春館跡」の項を読んでみよう。
天正11年(1583)頃、吉川元春が長男元長に家督を譲った後に隠居所として建てた館跡。元長死後は三男広家夫妻の居所として機能。天正19年(1591)、本拠が出雲富田城へ移ると館とその周辺は元春の菩提寺である海応寺の所領となる。
館は日山城(ひのやまじょう)の南西2.5kmに位置し、志路原(しじはら)川右岸の標高370m、比高8mの河岸段丘上にある。石垣がある東側を館の正面とし、間口110m、奥行80mの規模である。発掘調査により、台所・便所・番所・馬小屋・湯殿などの建物跡や井戸・庭園などの施設がみつかっている。
館の西側には元春・元長の墓所や元春の菩提寺である海応寺跡などがある。
日山城は出雲富田城へ移るまでの吉川氏の本拠である。日山城はかなりの山城であるが、元春館周辺の平地には家臣の屋敷や計画的な道路があり、城下町の性格も有していたようだ。
ここが「吉川元春・元長の墓所」である。広島県教委・豊平町教委説明板があるので読んでみよう。北広島町となる前は豊平町であった。
吉川元春は一五八六年(天正十四)豊臣秀吉の要請により九州の小倉へ進攻した時に五十七才で病没した。遺骸を此の地に帰し送葬し、随浪院殿前駿州太守四品海翁正恵大居士と号す。
又、左に隣接しているのは、元春の長男、元長の墓で、一五八七(天正十五)に宮崎県日向において四十才で病死したものである。元春に同じくこの地で送葬し萬徳院殿前禮部中翁空山大居士と号す。
なお、右に離れている墓標は元春の四男で早世した禅岑法師の墓と言われているがさだかではない。
吉川家が岩国に入封された後は一時期荒廃したが、一八二七年(文政十)に修復され、玉垣・石燈ができた。更に一九〇八年(明治四一)の進賞、追贈に際し改修が行なわれ現在に至っている。
写真右の標柱には「前駿州太守四品…」とあり元春の墓を示す。元春は従四位下駿河守であった。左の標柱には「前朝議大夫…」とあり元長の墓を示す。朝議大夫(ちょうぎたいふ)とは元長が正五位下であったことを表している。禅岑法師の墓はよく分からない。
明治41年4月の追贈により、吉川元春は贈正三位となった。兄の毛利隆元、弟の小早川隆景にも同じ位階が追贈された。この時、父の毛利元就は贈正一位と最高位を与えられている。正親町天皇の即位の大礼を助けたことが勤王と評価されたようだ。三人の息子は父のおこぼれに預かったように見える。
しかし、この親子、今を時めく「三本の矢」で強固に結ばれているのだ。一本の矢では折れるが三本の矢では折れない。親が追贈されて、その教えを受けた3人の子を放っておくわけにはゆかぬ。
アベノミクスの三本の矢は、金融緩和、財政出動、成長戦略である。今夜開票の都議選でも自民党は圧勝したようだ。ここは浮かれることなく、今一度「三矢の訓」の故事を思い起こし、自民党とその友党の結束により安定した政治を行っていただきたい。安定は希望なのだから。
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