富士山の世界文化遺産登録が円満に決定した。最初に富士を見たのは新幹線からだった。浜松を過ぎてしばらくして、前方に何か見える、と思っていたらそれが富士だった。万歳を叫びたくなるが、それもできず大人しくしていた。それから後に飛行機に乗るようになり、富士を見下ろしたこともあった。とにかく、近付くと富士山を意識してしまうのは私だけではないだろう。いったい、どのくらいの範囲が富士山意識圏内なのだろうか。
渋谷区千駄ヶ谷一丁目の鳩森(はとのもり)八幡神社の境内に「千駄ヶ谷の富士塚」がある。東京都の有形民俗文化財である。
奈良の大仏にさえその大きさに圧倒され平伏してしまうのだ。富士山のように遥かに巨大な自然の造形物に頭を垂れぬわけがない。雄大で美しいもの、それは信仰の対象である。信仰とは憧れであり、「富士山のように皆なろう」と山の高さの語呂合わせで、富士の姿に自分を重ねるのである。
江戸時代に富士信仰がさかんになり各地に富士塚が造営された。千駄ヶ谷の富士塚にはどのような意義があるのだろか。説明板を読んでみよう。
この富士塚は寛政元年(一七八九)の築造といわれ、円墳形に土を盛り上げ、黒ぼく(※原文は石+卜)(富士山の熔岩)は頂上近くのみ配されている。山腹には要所要所に丸石を配置しており、土の露出している部分には熊笹が植えられている。頂上には奥宮を安置し、山裾の向って左側に木造の里宮の建物がある。
頂上に至る登山道は正面に「く」の字形に設けられ、自然石を用いて階段としている。七合目には洞窟がつくられ、その中には身禄像が安置されている。塚の前面には池があるが、この池は塚築造のため土を採掘した跡を利用したもので、円墳状の盛り土、前方の池という形は江戸築造の富士塚の基本様式を示している。
この富士塚は大正十二年(一九二三)の関東大震災後に修復されているが、築造当時の旧態をよく留めており、東京都内に現存するものではもっとも古く、江戸中期以降、江戸市中を中心に広く庶民の間で信仰されていた富士信仰の在り方を理解する上で貴重な資料である。
富士塚の典型的な様式で、しかも都内最古であった。上の写真では緑に包まれてよく分からないが、イメージは下の写真のような凝縮された富士である。
ミニチュアを造っただけではない。富士山の溶岩を使って雰囲気まで生み出しているのだ。見よ、ここからの眺めを。通りを歩く人が小さく見えるではないか。
ここは昨年3月29日に「ブラタモリスペシャル神宮外苑」で放映された。その後、富士塚に登り記念のご朱印をいただく人が多くなったらしい。もちろん私もその一人である。
富士登山がこんなに手軽にできるとは、誠にありがたいことである。今回の世界文化遺産登録の正式名称は「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」である。信仰の対象ならば、千駄ヶ谷の富士山も同じだ。外されかかった三保松原も登録されたのだ。富士塚も入れてはどうだろう。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。