「宗教」は思索のみでは成立しない。感情の高まりが重要な要素であることを鑑みれば、「音楽」は不可欠なものだといえよう。音楽を聞けば自然に身体が動いてくる。その身体の動きは「踊り」と呼べばいいだろう。踊りによって私たちは神と一体となり、その折の境地を「救い」と呼ぶのである。
香川県綾歌郡綾川町滝宮(たきのみや)の滝宮神社前に「法然上人念仏御修行石」がある。
専修念仏を唱える法然上人は、比叡山の訴えにより承元元年(1207)に讃岐へと流された。その年のうちに赦免されたが、一年にも満たない月日であっても讃岐に残した足跡は大きい。ここ滝宮地区に伝わる「滝宮の念仏踊」もその一つである。写真の修行岩の背後にある説明を読んでみよう。
念佛踊り追恩碑
法然上人念佛修行石
浄土宗開祖の法然上人は建永二年(一二〇七)讃岐に配流となった。その折、滝宮のこの修行石の地にも立ち寄られ念佛教化された。この時、神社で奉納されていた雨乞いの踊りをご覧になり、念佛を称えながら踊るように振り付けの指導をされたと伝えられている。
合掌
法然上人の讃岐配流八百年追恩のためにこの碑を建てる。
平成二十年(二〇〇八)六月佛日
浄土宗南海教区
滝宮の念仏踊は国の重要無形民俗文化財である。もとは雨乞いの踊りだったというが、これは讃岐国司を務めた菅原道真に関係がある。『綾南町誌』で関連部分を読んでみよう。綾南町は平成の大合併以前の自治体名である。
讃岐の国司でもあった菅原道真は、漢詩をよくし、菅家文草を著しているが、その中に「蓮池詩」があり、仁和四年(八八八)讃岐の大干ばつのことが歌われている。
讃岐一円は春からまったく雨がなく、夏に入っても雲もなく、池の水はかれ、蓮根も枯死する状態であり、百姓の辛苦は目にあまるものがあった。
この惨状を見た菅公は、五月六日(太陽暦六月二十二日)斎戒沐浴(さいかいもくよく)し、祭文を城山神社に捧げて雨を祈ったところ、満願の七日目に雨が降り、三日三晩にわたって降り続いた。枯れかかった作物は生き返り、百姓たちは、我を忘れて喜び、滝宮牛頭天王社(今の滝宮神社)に集まり、神に感謝し菅公の徳をたたえて踊り狂ったという。
この後、延喜三年(九〇三)二月二十五日に菅公が太宰府で亡くなったことを知った百姓たちは、七月、滝宮牛頭天王社で鉦(かね)や太鼓をうち鳴らして菅公の霊を弔い、冥福を祈った。それから、毎年七月二十五日に菅公の遺徳をしのび、報恩感謝をこめるとともに、五穀豊穣を祝って、また干ばつの時には雨乞い踊りとして、滝宮牛頭天王社と菅公を祭った滝宮天満宮へ奉納するようになり、滝宮踊りとして伝えられることになったとされている。
この雨乞い踊りに、念仏を唱えながら踊るようにしたのが法然上人だったというわけだ。つまり、菅原道真公と法然上人の合作により重要無形民俗文化財が出来上がったのである。さすがは讃岐ゆかりのビッグネームだ。ただし、これは伝承の域を出るものではなく、確かな記録では江戸時代より前に遡ることはできない。
念仏踊は今年も8月25日に社前で奉納される。陣羽織を身に付け花笠を被った下知(げんじ)が大団扇(おおうちわ)を持って跳ねるように舞う。動画でしか見たことはないのだが、その独特の動きに見入ってしまう。節をつけて唱える念仏は「ナムアミドーヤ」(四国新聞社)とも「ナッバイドォヤ」(文化庁)とも聞こえるそうだ。
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