岩国市の恒例行事に「錦帯橋まつり」がある。今年も4月29日に36回目のまつりが行われた。中でも錦帯橋を渡る大名行列は圧巻だ。アスファルトの舗装道路を歩くのとは風情が違う。岩国藩の石田流砲術の伝統を伝える鉄砲隊の演武も迫力がある。さらに注目したいのは、このまつりが「旧藩主感謝祭」で幕を開けることだ。城下町の魅力は岩国にある。
岩国市横山二丁目に「槍倒(こか)し松」がある。
槍を倒すなどと挑発的な命名だ。由来を説明板で読んでみよう。
この松は、岩国武士の負けず嫌いを表徴する有名な槍倒しの松です。昔諸国の大名が他藩の城下を通るときは行列の槍を倒すのが礼儀となっていたのですが、大藩が小藩の城下を通るときは、儀礼を守らず槍を立てたまま威風堂々と通ったものです。岩国藩が六万石の小藩であるため岩国の武士達はこれを見て憤慨し、そこでかなり成長した横枝のはった松の木をわざと橋の頭に植え、大藩といえどもどうしても槍を倒さなければ通ることができないようにしたものです。今では昭和十年(一九三五年)の河川改修工事により道路や人家が堤防の上に移りましたが元は河辺りにあって、ここの石段が坂道になっていましたから大名が槍を倒して坂を登るのを見て岩国武士達は溜飲を下げていたということです。昭和十九年(一九四四年)頃、この地方に発生した松喰虫によって、この松も昭和二十七年(一九五二年)八月残念ながら枯れてしまいました。この松は初代の松の実から自生した直系の松を昭和四十三年(一九六八年)二月十五日三代目槍倒し松として吉香公園から移したものです。
なるほど江戸時代を知る松ではないものの、よく昔ながらの姿に成長している。岩国を通過した無礼な大藩とはどこだろう。福岡藩か、熊本藩か、薩摩藩か。上方までは海路を利用したのではないか。ならば長州藩か。長州は岩国を家臣とみなしていたから、そうかもしれない。あるいは、松の見事な姿から生み出された伝説なのかもしれない。いずれにしても「岩国武士の負けず嫌い」は確かなことなのだろう。
同じく横山二丁目に「旧目加田家住宅」がある。
城下町に残存する武家屋敷は意外に少ない。旧目加田家住宅は中級武士の住宅としては全国でも数少ない遺構であり、国指定重要文化財である。目加田家は近江国愛知郡を出所とし、天正年間に吉川元春に召し抱えられて以来吉川家に仕えた。文政年間には御用人役を勤め知行百七十石取りであった。
この武家屋敷で注目したいのが屋根瓦である。この独特な形状は「両袖瓦」といい、この地方独特のものである。この由来について『防長歴史探訪(五)』(山口銀行)の「藩とともに消えた瓦-両袖瓦」の項を読んでみよう。
岩国では桟瓦が普及してくる前に、本葺の簡易形として丸瓦+平瓦+丸瓦を一つにまとめた「両袖瓦」が考案され、両袖瓦と平瓦で葺く方法がとられ、二種類の平瓦で葺くので「二平葺」と呼ばれた。そして、これが領内に普及するようになり、全国的にみて稀な屋根の姿を現出した。
廃藩は地方の独自性をも奪う結果となり、両袖瓦の文化は消え去ってしまった。しかし、旧目加田家住宅の屋根瓦からは地方の誇りが伝わってくる。スタイリッシュな感じさえ受ける。その価値を再発見すべき文化であろう。
さらに同じく横山二丁目に「香川家長屋門」がある。
たいそう立派な長屋門である。県指定の有形文化財である。岩国市教育委員会が設置する説明板を読んでみよう。
香川家長屋門は岩国藩家老香川氏の表門で今から二百七十年余前香川正恒が建造したもので建築面積一二三、一四平方メートル江戸時代の武家門造の典型として城下町岩国をしのぶ好個の資料であります。
香川家は初め芸州(広島県)八木城主で吉川広家が岩国に移封された当時客分から家老に取り立てられた名門であり、かの歴史的に有名な陰徳大平記は正恒の父正矩苦心の作で正恒の弟景継が大成したものであります。その他香川家からは為政者あるいは歌人の優れた人物が輩出しています。
八木城とは広島市安佐南区八木にあった城で、香川氏はもと相模の武士、承久の乱後の新補地頭として安芸に移住した。安芸武田氏ののちに毛利氏、吉川氏に仕えるようになった。
『陰徳太平記』は毛利氏の中国制覇を中心とした軍記で、毛利氏とその家臣団のアイデンティティの確立に役立っている。この書物を大成した香川景継は「梅月堂宣阿(せんあ)」という歌人でもあった。
香川家には歌を能くした人が多かったが、関連のある歌人が香川景樹(かがわかげき)である。元禄六年(1693)に建てられた長屋門からは時代も人もどんどん離れているのだが、かまわず続けよう。
香川景継を祖とする梅月堂だが、四世香川景柄(かげもと)は景樹を後継者と見込んで養子とした。しかし、やがて新しい歌風を主張するようになった景樹は梅月堂を離れ、別の養子が梅月堂五世を継ぐ。景樹の流れは桂園派といい、賀茂真淵が「万葉集」を重んじたのに対し、「古今集」を尊重したのが特色だった。
香川景樹といえば次の狂歌を思い出す。
けるかなと香川の流れ汲む人のまたけるかなになりにけるかな
古今調の「けるかな」が桂園派の特徴であったのに対し、万葉調の「けるかも」は賀茂真淵から近代短歌に引き継がれ斎藤茂吉も使っている。
もうすでに岩国とは何の関係もない話になっている。城下町の風情を色濃く残す岩国は、文武双方のバランスのとれた西日本有数の観光地であった。
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