知の巨人、柳田国男は『日本の伝説』において伝説を類型化し、生成の背景や変化について指摘した。伝説の魅力は成長の過程にあると言っても過言ではないだろう。岡山県内から3つの伝説地が紹介されている。久米郡大倭村大字南方中の「二つ柳」については「箸立伝説と挿し木の近しい関係」で紹介した。勝田郡吉野村美野の「白壁の池」は未踏査だ。本日は、邑久郡裳掛村福谷の「裳掛岩」を紹介するレポートである。
瀬戸内市邑久町福谷に「裳掛岩」があり、地理院地図にも表記されている。何か掛けることの出来そうな形をしている。
この岩について、柳田先生はどのように論評しているのだろうか。『日本の伝説』を読んでみよう。
或はまた衣掛け岩、羽衣の松といふ伝説もあります。これも水の辺で、珍しい形の岩や大木のある場合に、不思議な神の衣が掛かつてゐたことがあるといふので、普通には気高い御姫様などの話になつてゐるのですが、それがまたいつの間にか、弘法大師と入り代つているところもあるのです。備前の海岸の間口という湾の端には、船で通る人のよく知っている裳掛け岩といふ大岩があります。これなども飛鳥井姫(あすかゐひめ)という美しい上臈の着物が、遠くから飛んで来て引つ掛かったといふいい伝へもあるのですが、土地の人たちは、またこんな風にもいつてゐる。昔大師が間口の部落へ来て、法衣を乾かしたいから物干しの竿を貸してくれぬかといはれた。竿はありませんと村の者がすげなく断つたので、大師もしかたなしにこの岩の上に、ぬれた衣を掛けてお干しなされたといふのであります。おほかたこれも一人の不親切な女の、後で罰が当つた話であつたらうと思ひます。(邑久郡誌。岡山県邑久郡裳掛村福谷)
美しい着物か地味な法衣か、かなりイメージは異なる。いわくありげなお姫様の話からよくある弘法伝説へと変化したというのだ。古い記録を調べてみよう。江戸中期に成立と思われる『吉備前秘録』には、次のように記されている。巻之中「邑久郡古跡并牛窓虫明謂(いはれ)の事」より
虫明の瀬戸。東に海を抱き、後に山を帯たり。虫明の瀬戸は名所なり。瀬戸の明ぼの無類美景なり。昔飛鳥井姫君と聞えしは佐(狭)衣の中将と契りて居給ふ所、筑紫の何某とやいふもの、此姫君に恋の思ひをかけ、姫君の乳母を語らふ。乳母心得て偽りていゝけるは、佐衣の殿と諸共に、東へいざなひ奉らんとて、館を忍出て、伏見の夜舟に乗らせまゐらせて下りけれは、姫君いぶかしく思召、東へ行には此舟に乗るとは心得す。是は西国へなん下るやと仰らる。其時乳母申けるは、是に御入候御方、御前に御心かけられて、西国へいざなひ奉るといひければ、姫君甚だいかりまして、其儘海に入らんとしたまゐしを、さま/\御いさめつゝ、漸く虫明の裳懸へ舟をよせ、是は名所なりとて、古歌をも詠しつゝさま/″\なぐさめ奉る。され共姫君心中には、身を投ばやと思召て、
早き瀬の底のもくつと成りにきと扇の風よ吹きもつたへよ
と詠、流に御身を投んとし給ひしを、何れも取付き奉り押留ける。其後御供の人いざなひて、さしまといふ浦に至り、月日を送り給ふ折節、此姫の伯母西国へ下り給ひて、此裳掛へ御舟をよせ、姫に逢給ひて打連て都へ帰り給ふとなり、即此所に裳掛岩といふ岩あり。
狭衣大将の愛を得た飛鳥井女君は、狭衣の乳母子である道成と女君の乳母との共謀により、筑紫へと連れ去られそうになる。舟の上ですべてが分かった女君は入水しようとするが押し留められる。その後「さしま」という浦で過ごし、裳掛を訪れた女君の伯母に連れられ都へと帰っていった。
この物語は『狭衣物語』のようだ。この王朝文学については、藤原定家が『源氏狭衣百番歌合』を編纂し、鎌倉期の物語論書『無名草子』が「狭衣こそ源氏に次ぎてはよう覚え侍れ」と評したように、『源氏物語』と並称されるほどの評判であった。
虫明の瀬戸、そして裳掛岩が『狭衣物語』ゆかりの地であることは分かったものの、衣装を掛けた話は出てこない。物語の原文も読んでみよう。
頭をもたげてつく/″\と沖の方を見やれば、空はいさゝかなる浮雲もなくて、月のさやかに澄み渡りたるに、海の面は来し方行く末も見えず、遥々と見渡されたるに、寄せかへる波ばかり見えて、舟の遥に漕がれ行くが、心細き声して、「虫明の瀬戸へ今宵」と歌ふもいと哀に聞ゆ。
流れても逢ふ瀬ありやと身をなげてむしあけの瀬戸に待ち試みむ
とて、袖を顔におしあてて、とみにも動かれぬ程に、人や見つけむとしづ心なければ、泣く泣く単袴ばかりを著て、髪かいこしなどするに、ありし御扇の、枕がみにありけるが手に障りたるも心騒せられて、まづ取りて見れば、涙に曇りてはか/″\しうも見えず、墨ばかりつや/\として、唯今書き給へる様なるに、さしむかひたる面影さへふと思ひ出でらるゝに、この世にて又見奉るまじきぞかし、唯今斯くなりぬるとも知り給はで、何処にいかにしてかおはすらむ、寝やし給ひぬらむ、さりとも寝覚には思しいづらむかし、などより外は、又なき心まどひなり。硯をせがいに取り出でて、この御扇にもの書かむとするに、目も霧りふたがりて、手もわなゝきて頓にも書かれず。
はやき瀬の底のもくづとなりにきと扇の風よ吹きも伝へよ
えも書きはてず、人のけはひすれば、疾う陥りなむとて海をのぞく、いみじう恐しとぞ。
頭を上げてしみじみと沖のほうを見遣ると、空は少しの雲もなく、月影さやかに澄みわたり、海は遥か遠くどこまでも見渡すことができた。寄せては返す波ばかりが見える中、どこまでも漕ぎ行く舟から「虫明の瀬戸へ今宵…」と心細げに詠うのは、とても物悲しい。
身を投げても逢瀬はあるでしょう。虫明の瀬戸であなたを待ってみたいと思います。
と、袖を顔に押し当て、急には動けないほどだったが、人に見つかるのではと落ち着かず、泣く泣く単衣袴だけを身に着け、髪の毛を前に回そうとすると、枕元にあった例の扇が手に触れたことにも心が乱れ、とりあえず手に取って見たが、涙で曇ってはっきりとは見えない。墨ばかりつやつやとして、たった今お書きになったようであり、お逢いした夜の面影さえ思い出される。この世で再びお目にかかることはできまい。ただ今こうして死んでいくともご存知ではなく、どこでどうしておられるのだろう。もう寝てしまわれたか、それでもお目覚めになれば思い出していただけるだろう。そればかりが気にかかって、硯を船枻(せがい)に出して、この扇に書き付けようとしたが、目が涙で霞み手も震えるので、すぐには書くことができなかった。
扇よ、あの女は早瀬に身を投げて死んでしまったと、風に乗せて都の君に伝えておくれ。
どうしても書き終えることができず、早く入水しようと海をのぞいたが、とても怖くてできなかった。
暗く輝く洋々たる大海。その中で煩悶し、入水しようとして果たせぬ女。この描写について大西克礼『自然感情の類型』(要書房、昭和23)は、次のように評している。
此処にはまさに人の生命を呑まんとする自然の大きさに対する感情が、表現されてゐるやうに思はれる。
『狭衣物語』屈指の名場面なのである。ここに虫明の瀬戸は登場するものの、裳掛岩はやはり出てこない。入水から衣装を岩に掛けるを連想するだけのことである。それでも、虫明の瀬戸が王朝文学に登場していることは、記憶に留めておく価値があるだろう。その記憶の縁として裳掛岩は存在するのだ。
ところが、昭和9年の花田一重『新輯岡山県伝説読本』(文正社書店)では、裳掛岩の伝説内容がまったく異なっている。読んでみよう。
裳掛岩
邑久郡裳掛村大字虫明字破砂の黒井山に等覚寺と云ふ真言宗のお寺がある。承和元年(一四九四)宗祖弘法大師の創造せられしと言伝へ、霊験あらたかに、善男善女の参拝する者が多い。境内に墨染の井があり、之れは大師巡錫の際法衣を洗はれしとて四時涸渇することがない。井の側に石を建て一首の和歌が彫りつけてある。
御衣の名にそ黒井に流れ出て幾世尽きせぬ墨染の井
ちやうど弘法大師が其井で法衣を洗はれた時のことであった。それを乾かしたいと思はれ、其あたりの民家に立寄られて、
「物干竿を貸して戴きたい」
と言はれたところ
「竿はありません」
と言ってすげ無くことはられたので、大師もせん方なく衣を乾かすによい所を探し廻られたところ、間口湾で一つの岩を見つけられ、それに衣を掛けてお干しになった。
そこは古来曙の景色で有名な虫明の迫門であつて、今も裳掛村福谷に残る裳掛岩がそれである。
裳掛岩の由来が、等覚寺の「墨染の井」と絡めて説明されている。伝説としては落ち着きのいい内容だが、王朝文学の典雅な風情はどこにもない。柳田先生ご指摘のとおり、「いつの間にか、弘法大師と入り代つている」のである。
等覚寺が布教のために裳掛岩を活用したのだろうか。『狭衣物語』が忘れ去られて、民衆に対する説得力を失ってしまったのだろうか。大河「光る君へ」によって『源氏物語』が静かなブームになっているのだ。せっかくだから「裳掛岩で『狭衣物語』再発見!」とPRするのも一興だろう。