吉備の古墳なら全国第4位の造山古墳もいいのだが、三大巨石墳と呼ばれる巨大な横穴式石室も見応えがある。うち二つは「美女とこうもり」「桜でも古墳でも権力を誇示」で紹介済みだ。牟佐大塚の被葬者が上道氏であるのに対して、本日紹介の古墳は下道氏だと考えられる。駐車場完備のよくできた古墳だ。行ってみよう。
倉敷市真備町箭田に国指定史跡の「箭田大塚古墳」がある。標柱には「史蹟名勝天然記念物保存法」によって文化財指定されたことが示されている。重厚な造りで、王者の風格が伝わってくる。
古くからその価値を認められたこの古墳は近年、日本遺産の構成文化財にも指定された。火曜サスペンス劇場のような長いタイトルはいかがかと思うが、ストーリー性を加味して価値を創造する姿勢には敬服する。駐車場に説明板があるので読んでみよう。
日本遺産 Japan Heritage
「桃太郎伝説」の生まれたまちおかやま~古代吉備の遺産が誘う鬼退治の物語~
箭田大塚古墳(やたおおつかこふん)Yata-otsuka Burial Mound
古墳時代後期(6世紀後半)に築造された直径約54mの円墳です。奥壁に巨大な一枚岩を用いるなど天井や壁面を巨石で築いた広い石室を持ち、吉備の三大石室古墳の一つに数えられています。
須恵器などと共に、墓の主の力の大きさを示す装飾品や馬具などの豪華な副葬品が発見されました。
この地に大きな勢力を持つ有力者がいたことで、対立する大和朝廷が派遣した吉備津彦命が、鬼神(温羅とも呼ばれる)を退治する伝説が生まれたと考えられています。
周辺一帯は古代豪族の下道氏が勢力を持っており、奈良時代になって称徳天皇の下で右大臣として活躍した吉備真備も下道氏の出身です。
確かに6世紀後半のこの地に有力豪族がいたことは間違いない。ただし、その豪族は大和朝廷と対立していたのだろうか。吉備氏反乱伝承は5世紀の状況を反映していると考えられている。古墳前の説明板を読んでみよう。
箭田大塚古墳
国指定史跡
昭和4年12月17日指定
箭田大塚古墳は、古墳時代後期に造られた直径約50mの円墳で、長大な横穴式石室を有することから、岡山市・牟佐大塚古墳、総社市・こうもり塚古墳とともに、岡山県三大巨石墳の一つに数えられています。石室全長は19.1mを測り、棺を納める玄室の長さは8.4m、高さ3.8m、幅3.0mで、中には3基の組合せ式石棺が置かれています。
明治34年(1901)に行われた調査では、武器や馬具に加え玉類などの副葬品が発見されており、その多くは東京国立博物館に所蔵されているほか、一部は吉備寺にも保管されています。その後、昭和58年(1983)に保存を目的とした確認調査が行われ、墳丘の周囲を巡る周溝が確認されたほか、各種須恵器や形象埴輪、鉄鏃、鉄釘などが出土しました。この調査により、古墳の築造時期は6世紀後半頃で、墳形は北西側に張り出しをもつ円墳であることがわかりました。
出土品で注目したいのは、鉄鏃、鉄釘という鉄製品だ。「日本最古だった製鉄炉跡」で少し触れたように、製鉄は6世紀中頃に吉備で始まり、以後国内最大の産地となっていく。
製鉄で生産力を高めた吉備が大和に対抗するようになった事実はない。むしろ大和朝廷の重要拠点として扱われ、下道氏をはじめ吉備氏の地位向上につながったと考えられる。すべてを桃太郎伝説で語るのは困難であり、事実に依拠しない言説が定着することはないだろう。
コメント