のぼり棒は得意だったが、うんていは苦手だった。「うんてい」はなぜそうに呼ばれるのか、嫌いな遊具だったので考えたこともなかったが、地面に足が届く大人になり、「雲梯」と書くことを知って納得した。「雲のはしご」なのだ。なんと素敵な遊具だろうか。
雲梯は「うなて」とも読むそうだ。橿原市には雲梯町(うなてちょう)という地名がある。「雲梯(うなて)の社(もり)」という歌枕で有名だったという。いや、その歌枕は大和ではなく美作にあったともいわれている。
津山市二宮に「宇那提森(うなでがもり)のムクノキ」があり、市の天然記念物に指定されている。
幹はずいぶん傷んでいるように見えるが、青葉が美しいので樹勢の強さを感じる。とにかくカメラに収まりきらないくらい巨大で、圧倒される。どのような歴史があるのか、説明板を読んでみよう。
宇那提の森
萬葉集を始め数々の歌集に詠まれ歌枕として有名な宇那提の森である。昔は此のあたり一面うっ蒼とした水辺の森林であったが戦国の頃堡塁の用に供するため宇喜多氏によって伐採され此の一本の椋の木が残された。樹齢七百年と言われる。貞享五年(一六八九年)森家の家老長尾隼人は石碑を建て之を顕彰した。
萬葉集巻七
真鳥住む宇那提の森の菅の根を衣にかきつけ着せむ児もがも
同巻十二
思はぬを想うと言はば真鳥住む宇那提の森の神し知らさむ
なるほど「宇那提の森」は「真鳥住む」という枕詞がかかる歌枕だったことが分かる。鷲が棲んでいたという鬱蒼とした森は、城砦の資材として宇喜多氏により伐採され、このムクノキ一本が残ったという。津山藩家老の長尾隼人は、この地が歌枕であったことを広く知ってもらおうと石碑を設置した。碑文は現在でもはっきり読み取ることができる。
宇那提森
高野之神境宇那提森者倭歌所詠布在舊籍然行旅之客或未識之于茲鐫厥號於石以指示之欲垂此於不朽
貞享五稔戊辰林鐘良日
高野神社の境内にある宇那提が森は、歌枕として古い書物に記録されている。ところが、これを旅人がこれを知らないこともあろうかと思い、ここにその名を石に刻んで示すことにした。宇那提が森の名が朽ちることなく伝わることを願うものである。
貞享五年六月吉日
文化財保護行政の好事例で、石碑そのものにも価値がある。出雲街道を往来する旅人は、椋の巨木と石碑から失われた森の風景を想像し、万葉のむかしに思いを馳せたことだろう。石碑そのものを歴史資料として重要文化財に指定してもよいくらいだ。
ところで、ここが「宇那提が森」であるという根拠は何だろうか。順徳天皇が著した『八雲御抄』巻第五「名所」の部「杜」の項には、次のような記述がある。
「うなての」美作。萬、眞鳥すむ。すがのねあり。
歌に優れた順徳院がそうおっしゃるのだから間違いなさそうに思えるが、江戸時代になり、これにクレームをつける大胆不敵な書物があった。荷田春満(かだのあずままろ)の弟信名(のぶな)がまとめた注釈書『万葉童蒙抄』には、「真鳥住む」の歌について次のように解説されている。
八雲には美作と注させ給へ共、此の歌の次で皆大和なれば心得難し。延喜式和名抄にも美作の国中には不見。和名抄に高市郡に雲梯と云をあげたり。兎角大和なるべし。日本紀には溝をうなでとよめり。石上溝などと云事あれば若しそのあたりにある森か。
順徳院の『八雲御抄』では美作としているが、この歌に続くのはみな大和の歌なので美作説はあやしい。平安期の辞書『和名類聚抄』では、大和国高市郡に「雲梯」が記載されているが、美作国には何も書かれていない。とにかく「うなて」は大和であろう。『日本書紀』では履中天皇四年十月条に「石上溝(いそのかみのうなで)」とあるので、その近くの森を指すのではないか。
このように根拠を挙げて反論している。確かにいま、橿原市雲梯町の河俣神社は「雲梯の杜」に比定され、「思はぬを」の歌碑が建てられている。歌枕「うなて」は大和か美作か。近年の注釈書によれば、通説は大和説のようだ。
それでも私は主張する。倒れんばかりに傾きながらも勢いさかんな巨木と、それを文化財として保護し旅人に紹介した津山藩。エコツーリズムの先駆的な事例として高く評価できるではないか。加えて少々独断的だが、ここは国学者よりも順徳院のご判断を尊重したい。よって「うなて」美作説に賛同するものである。
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