近年は橋梁のライトアップで夢のように幻想的な景観を見ることができる。人工的な景観美なのだが、橋梁デザイン本来の美しさを光が増幅させている。世の橋は数で言えば上路式が圧倒的に多いが、景観としてはやはり下路式に華がある。
本日は岡山県山大河川の一つ、高梁川に架かる橋梁を紹介する。新しい橋では箱桁橋を多く見かける。スマートなフォルムで快適に通行できるが、やはりアーチなりトラスなりの上部構造を伴う橋のほうが気分は高揚する。
総社市原と美袋を結んで高梁川に「水内(みのち)橋」が架かる。長さは181m。今は爽やかな水色だが、古い写真をみると、黄色い塗装だったようだ。
橋梁形式は下路カンチレバー上曲弦ワーレントラス橋ということになろうか。走行路面の上部に構造物があるから下路式。橋脚を支点として中央側と岸側で荷重の釣り合いを保つカンチレバー橋。(※ドイツの技師にちなんでゲルバー橋ともいう。)三角形のトラス構造を逆Wに組み合わせたワーレントラス橋。上弦材を橋脚部のみ上に曲げた上曲弦ワーレントラス橋である。
2か所の橋脚部の山型がアクセントになって景観を引き締めている。一番下の写真、右側の親柱には「昭和十三年竣工」の銘板が嵌められている。この時期に架橋された背景には、長年にわたる住民の悲願があった。総社市文化振興財団『わたしたちのふるさと「総社」歴史と文化財』には、次のように記されている。
水内村長を務めていた山本方一郎氏は、地域の人々の願いである水内橋の建設の運動に取り組みました。そして、苦労の末、昭和五年に水内橋が完成し、水内川原で水内橋祝賀式が行われました。渡り初めは、維新・昭和小学校の児童らが、日の丸の旗を振り、橋の完成を祝う歌を歌いながら行いました。
しかし、四年後の昭和九年、水内橋は室戸台風による洪水で押し流されてしまいました。鉄骨でできていた橋は大丈夫と信じていた人々のショックは、大きかったようです。
当時の村長の渡辺喜作氏は、水内橋に代わる仮の橋を架け、さらに、県へ水内橋の建設を願い出ました。こうして、昭和十三年、全長八一メートル、幅五・五メートルの現在の橋が完成しました。
昭和5年の架橋以前は渡し舟だった。他に迂回ルートがないのは今も同じ。橋を渡って美袋の町へ出ることができたら…。水内村の人々の誰もがそう願っただろう。そして、やっと架けられた橋だったが、室戸台風で流されてしまう。鉄骨だったものの、おそらく橋脚が多いため流木を引っ掛けたのではないか。
この事態を防ぐには橋脚間、スパンを広げ流下能力を確保しなければならない。そのために採用されたのが、丈夫な構造をもつトラス橋であり、下からの支えを必要としないカンチレバー工法だったのである。
水内橋は両岸住民の一体化を促進し、昭和27年の昭和町誕生につながったという。現在は総社市となっているが、「昭和五つ星学園」に旧町名を見ることができる。お祝いの歌を歌いながら渡り初めをした維新小や昭和小などで再編された義務教育学校であり、旧維新学区の子どもたちは毎日、水内橋を渡っているはずだ。
湾曲する高梁川の内側にできた水内川原。橋を見上げた人々は来し方の苦労を偲び、行く末に希望を抱いたことだろう。しかしながら、戦雲が次第に濃くなるにつれ、出征兵士の渡る橋となったのではないか。そして、戦後の平和と高度成長。悠久の川の流れと行き来する人々、そして移り変わる時代相。変わりゆくものを変わらず見続けたのが水内橋であった。
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