岳飛に秦檜、島田叡に泉守紀、そして大石内蔵助に奥野将監。ヒーローの陰には不当に評価される者がいる。現実を見据えて最適解を見出して行動したはずが、「保身に走った」と中傷される。人の評価は善悪二元論で論じることはできないはずだ。
加西市下道山町の礒崎(いそざき)神社の奥に「奥野将監屋敷跡」がある。
奥野将監は大石内蔵助に次ぐ赤穂藩の重臣で、内蔵助とともに難局に対処した人物だが、浅野家断絶が固まり円山会議で討入方針が決まった後に、内蔵助とは行動を別にした。
本懐を遂げ細川家に預かりとなった内蔵助は、世話役の堀内伝右衛門に次のように語ったという。「堀内伝右衛門聞書」より
奥野将監と申者、千石に而番頭を勤、今度赤穂ニ而、諸事申談、御目付荒木十左衛門様え連名の書付をも差上。荒木様江戸御帰之上、土屋相模守様迄委細申上候間、左様心得候様にと、私将監両名之書付をも御渡被成候、如斯御老中様え名前をも出し候者心替仕候
荒木十左衛門は荒木村重と同族の旗本。収城目付として赤穂に赴く重責を果たした。土屋相模守は常陸土浦藩主で老中の土屋政直。その老中様の元にまで名前が届いた奥野将監は、すっかり心変わりしてしまった。
世情の評判高い義士大石内蔵助の証言によって、奥野将監は不義士と見なされるようになった。将監はなぜ脱盟し、どのような思いでここに来たのか。説明板を読んでみよう。
赤穂浪士ゆかりの地
奥野将監屋敷跡
赤穂浪士の一人奥野将監定良が隠れ住んだという屋敷跡です。
奥野将監は、赤穂藩で大石良雄(内蔵助)に次ぐ重臣で、江戸城刃傷事件の後、同士と主君の仇を討とうと誓いましたが、結局討ち入りには参加しませんでした。
その後、将監の娘が礒崎神社の神宮寺に嫁いでいるのを頼り、ここにしばらく居を構えました。
屋敷は、山裾に位置し狭小で、ひっそりと暮らしていた様子が何えます。奥の墓石は、将監の娘の子のものと伝えられています。
将監はその後現在の中町に移り没したと言われています。
加西市観光協会
保身に走って脱盟したように思われているが、ここでは事実を淡々と記しているのみである。内蔵助が吉良上野介を討ちもらした際に備える二番手だったとも、主君内匠頭の隠し子を育てるためだったとも言われている。
だが本当は、浅野家再興に賭けていたのではないか。仇討ち派も含めて家中の結束を最優先に行動してきたが、望みが絶たれ家中離散が決定的となった以上、内蔵助と行動を共にする理由はなくなった。
仇討ちに参加しなかったから不義士と断罪するのはおかしいし、密命を帯びて隠棲したとするのも穿ち過ぎだろう。奥野将監は御家第一に考えた忠臣である。忠義の表し方が内蔵助とは異なり、世間を騒がせるのを好まなかっただけだろう。
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