我が国で出土した遺物のうち最古の紀年銘を有するのは、国宝「東大寺山古墳出土品」に含まれる「花形環頭飾金象嵌銘大刀」で、後漢の元号「中平」(184~189)が刻まれている。
これは第12代皇帝霊帝最後の元号である。我が国で霊帝は大物渡来人、阿知使主(あちのおみ)の先祖として知られており、子孫では坂上氏が有名である。倉敷美観地区の阿智神社にも関係があるようだ。
ただ霊帝の評価は決して芳しいものではない。後漢の衰退は霊帝に始まる。それを象徴するのが、中平6年(189)4月に霊帝が亡くなった時のこと。即位した少帝は元号を光熹としたが、8月末には昭寧と改められる。ところが、9月に少帝が廃され、献帝が即位すると元号は永漢とされた。しかし、12月には光熹、昭寧、永漢はなかったものとされ、中平6年となった。このように、後漢末の混乱を象徴する元号「中平」が刻まれた大刀が古墳に納められ、今に伝わっているのである。
我が国の元号はどうだろうか。木簡なら藤原京左京七条一坊西南坪出土木簡に「大宝元年十一月」とあり、石碑なら上野三碑の多胡碑に「和銅四年三月九日甲寅」とある。鳥居はどうだろうか。紀年銘のある最古の石造鳥居は「日本最古の在銘石鳥居」でレポートした南北朝時代の鳥居だ。
広島県世羅郡世羅町甲山(こうざん)の今高野山に「粟島神社鳥居」がある。これも南北朝時代のものだという。
今高野山は2022年に大きな節目を迎えた。「祝・今高野山開基1200年!」でレポートしているように、古い歴史があるから古い鳥居があっても不思議ではない。ただ、昔の人は古いものを遺そうと思っているわけではないので、傷みが目立ち始めるとリニューアルしたくなるのが人情だ。その他にも自然災害や戦乱で失われた未来の文化財は数知れない。この鳥居にも幾多の危機があったことだろう。説明板を読んでみよう。
粟島神社鳥居(県重文)
一基 昭和三二年(一九五七)二月五日指定
南北朝時代 ※南朝年号:康暦二年(一三八〇)刻銘がある
世羅町大字甲山(今高野山龍華寺)
粟島神社鳥居は、南北朝時代の紀年銘を有する貴重な鳥居として国内的にも名が知られている。元は安楽院(十二院の一つ)の境内地に、同院の鎮守社として祀られていた粟島神社の鳥居であったが、大正時代末期に現在地に移築されたと伝える。
柱が直立して建てられる古い様式で、右柱裏面に「□□□□康暦二年庚申二月十三日※□は判読不明文字」の紀年銘が刻まれている。亀腹(台座)は左右とも残っており、当初は上縁に複弁の反花をめぐらせていた痕跡がうかがえる。額束中央には大日如来を示す種子(梵字)が刻まれており、神仏習合の時代を表徴したものといえる。
屋根の幅は頂部一・七四メートル、中央部額束上の屋根高は一・六二メートルである。
なお、同社には南北朝時代の八方天が描かれた小さな「木造漆塗厨子」(町重文)が納められていた。
世羅町・世羅町教育委員会
康暦二年は1380年。北朝の後円融天皇の御代で将軍は足利義満、南朝では長慶天皇の天授六年に当たる。この年の出来事で大きいのは、小山義政の乱であろう。下野守護の小山義政が国司の宇都宮基綱を討ち、鎌倉公方の足利氏満に攻められた。降伏反抗を繰り返して翌々年に滅ぼされる。
東国は不安定だったが、西国はどうだったのだろう。父尊氏に反抗した足利直冬の勢力は侮れないほど大きかったが、この頃には北朝の内紛も収束していたようだ。いずれにしても鳥居の建立は、仏教的に表現すれば現世安穏、離苦得楽を願ってのことだったに違いない。
康暦二年といえば、「正平南海地震の記憶を訪ねて(旧由岐町・下)」で紹介した我が国最古の地震津波碑が建立された年である。地震から二十年ほどして建てられた供養碑ということだから、この時代には生活が安定し、過去を振り返る余裕ができたのかもしれない。
「時を刻む」という言い方があり、時間が経過することを意味している。時を刻めば刻むほど失われていく史料は多くなり、古い年代が刻まれた史料は数少ない。単に珍しいというだけでなく、その年代が私たちを当時へと誘ってくれるところに魅力がある。時を刻めば刻むほどに魅力は高まる。人もそうありたいものである。