「兵庫五国」と言って、兵庫県は摂津・丹波・但馬・播磨・淡路の五つの国から成り立っていることから、県民はその統一性と多様性を誇りにしている。但馬・播磨・淡路は全領域を含み、丹波・摂津はその一部を県域としている。
さらによく調べると、西隣にある備前と美作の一部も県域に取り込んでいる。うち備前については「マージナルな場所には魅力がある」で紹介した。割と知られた地理スポットである。本日は兵庫県内の美作を紹介しよう。
兵庫県佐用郡佐用町東中山と同町大畠(おおばたけ)の境に「旧県管轄界跡」がある。
標柱には「旧岡山縣旧兵庫縣管轄境界標」と刻まれている。かつて、ここに県境があり、北側の東中山地域は岡山県だった。詳しいことは副碑に刻記されているので読んでみよう。
旧県管轄界跡
明治二十九年(1896)、岡山県讃甘村の一部であった中山は県境変更により、兵庫県江川村に編入された。
それまでは、この地が県境であり、また、姫路鳥取間を結ぶ主要道であった。
明治六年、新政府は全国掌握の一環として街道の距離を、統一基準で測り、主要地点に木製里程標柱を建てるよう太政官達を発した。
当時、両県の管轄境界であったこの地にも標柱が建てられていたが、県境変更により朽ちるにまかせ、大正末年には、石組みの基壇が残るだけになっていた。記録に残る基壇は、長さ九尺七寸(約3m)高さ二尺六寸(約0.8m)幅四尺(約1.2m)、標柱は一尺角(約0.3m)地上高さ一丈二尺(約3.6m)であった。
標柱には、両県の本庁までの距離などが彫り込まれていたが詳しい内容を記する資料は残っていない。道路拡張などにより様子は変ってしまい、境界であったことさえ人々の記憶からも遠くなってきたが、残されていた一部の基壇石材を使い、当時の歴史を語る史跡として、標柱を模した記念碑を建立した。
平成二十八年七月吉日
江川地域づくり協議会
玉落の里を偲ぶ会
讃甘(さのも)村は宮本武蔵生誕地として知られた場所だ。現在の東中山の地は、明治29年まで岡山県吉野郡讃甘村であった。この時、兵庫県に編入されたのは中山地区だけではない。東隣の岡山県吉野郡石井村はまるごと兵庫県佐用郡に編入された。
合併とか編入とか境界変更にはトラブルがつきものだ。平成の大合併でも破談したケースがいくつもある。明治29年の県境変更はどうだったのだろう。第9回帝国議会衆議院本会議(2月29日)で、立憲改進党の大津淳一郎議員が政府委員の松岡康毅(やすたけ)に質問している。
「岡山縣、兵庫縣ノ境ハ、山ガ隔ッテアルノデ斯ウシタ方ガ交通ガ便利デアルカラスル」ということだが、そういう理由なら、他地域からも要望が出ているだろう。「進デソレ等モ殘ラズ御變ニナッタラ如何デゴザイマセウカ」。
そうはおっしゃいましても、様々なケースがございまして、不必要と認めたものもあれば「茨城ト千葉トノ間ノ如キナカ/\ドウモムヅカシイ問題デゴザイマシテ」、いちいちお答えすることはできませぬ。
当時、第2次伊藤内閣で内務次官だった松岡は、茨城県と千葉県の県境問題を例に挙げ、軽々には進められないと答弁している。茨城県出身の大津は「うっ」と言葉に詰まったのではなかろうか。
岡山県と兵庫県の場合は、山に隔てられていて不便だったという。本日紹介の旧県管轄界跡から北へ、旧岡山県内を岡山県道・兵庫県道240号下庄佐用線を進めば、現在の県境がある。そこは峠で、実に県境に相応しい地形となっている。どうやら納得の境界変更だったようだ。
かつて岡山県だった中山地域を、アラスカをアメリカに売却したロシアの気分で見ている。ああ、なんで手放したんだろう。でもそれは違う。本当に大切なのは、そこに住む人々がどう思っているかだ。幸せに手を入れる必要はない。兵庫七国は県民の誇りである。
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