今年も鍋の季節がやってくる。鍋奉行にアク代官とは、よく言ったものだ。蒙昧な民は肉、肉と騒ぐのだが、奉行は毅然と対処し、民に最後までおいしい具材と汁を施してやらねばならぬ。鍋を治める者は夕食を制す。その者こそ名奉行である。
尾道市東久保町の浄土寺境内に「平山角左衛門尚住の墓」がある。尾道町奉行で尾道市の名誉市民第1号である。名奉行が言いたいばかりに冒頭で鍋奉行の話をした。面目ない。
勤務地の名誉市民となったのは昭和43年であるが、その前に国からも顕彰されている。大正8年11月に従五位が贈られているのだ。『贈位諸賢伝』(国友社、昭2)の「平山角左衛門」の項を読んでみよう。
名は尚住、広島藩士なり、人と為り明断吏材に富む、元文年間、藩主浅野吉長、擢んて尾道町奉行として、民政に与からしむ、尚住治に蒞み、仁慈愛撫を以て公益を図り、殖産興業に尽瘁したり、当時、其地埠頭狭隘、土砂堆積して、貨物集散、運輸の不便なるを憂ひ、大に土木を起し沿岸の寄洲を埋め、海底を浚渫するに、五ヶ年の星霜を費して竣工せり、是に於て新に道路溝渠を設け、船舶出入の利便を図り、以て中国唯一の良港と為る、尚住、任了り同地を去るに及び、町民祠宇を建て、平山霊神社とし、築港竣成の記念日、二月廿六日を以て、毎年例祭を行ふに至れり、明和五年十二月広島に歿す、独峰院勁嶽松残居士と法諡す。
広島藩主5代目で名君として知られる浅野長吉によって第13代尾道町奉行に抜擢されたのが元文五年(1740)2月16日。寛保元年(1741)3月6日から港湾拡張の工事を行った。人夫賃がよいので多くの人が集まり、50日間という短い工期で完成した。ところが、この年の11月に離任して広島へ戻り、延享二年(1745)2月26日に亡くなった。
以上は、海事都市尾道推進協議会のサイトに掲載れている情報である。『贈位諸賢伝』の記述とはかなり異なっている。墓に刻まれた戒名も「林樹院葉山夏渓居士」とやはり異なっている。
工期は50日か5か年か。2月26日は命日か竣工日か。亡くなったのは延享二年(1745)か明和五年(1768)か。そして戒名は…。
近世中頃の実在人物ながら不明な点がいくつもある。不思議なことだ。間違いないのは、平山角左衛門尚住は尾道の恩人であり、彼の功績を称えるため「おのみち住吉花火まつり」が行なわれていることだ。今年は7月20日(土)であった。1万3000発だという。単なる花火大会ではない。神事である。
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