いよいよ大河ドラマ『軍師官兵衛』が始まる。安土桃山の三雄の時代だから視聴率は確実に獲れる。司馬遼太郎の『播磨灘物語』の主人公として歴史好きには人気の高い人物である。西日本に点在する官兵衛ゆかりの地も観光客増加に期待していることだろう。
人気の高い黒田官兵衛であるが、銅像はあまり見かけないようだ。最近出版された『日本の銅像完全名鑑』(廣済堂)には福岡市総合図書館にある胸像が1体紹介されているのみである。黒田二十四騎の母里太兵衛は2体全身像があるというのに、偉大な藩祖は銅像の世界では扱いが軽い。
その代わりと言っては何だが、今日は官兵衛の顔ハメからのスタートだ。
ポーズもキマってカッコいいぞ。お椀を伏せたような兜は「銀白壇塗合子形兜(ぎんびゃくだんぬりごうすなりかぶと)」で、実物はもりおか歴史文化館が所蔵している。寛永9年(1632)から翌年にかけての黒田騒動の結果、栗山大膳によって福岡から盛岡にもたらされた。
この兜をもとにしたご当地キャラが大分県中津市にいる。豊前国中津黒田武士顕彰会の「あ!官兵衛」である。あっかんべーのダジャレのようなネーミングで、巨大な合子形兜に目鼻口がついて舌を出している姿である。
こう聞けば、提灯お化けを思い出すだろうが、これでなかなか愛嬌があって子どもたちに人気だ。今後、もっと忙しくなることだろう。ちなみに福岡市公認のキャラ「ふくおか官兵衛くん」も合子形兜をかぶっているが、こちらは姿もネーミングも正統派である。
姫路市御国野町御着の姫路市東出張所前に「黒田官兵衛顕彰碑」がある。レリーフされた官兵衛もやはり合子形兜をかぶっている。
ここは御着城のあった場所である。官兵衛が家督を継ぐまで近習として仕えた小寺政職(まさもと)の居城である。「御着城址」の石碑もある。塀の上に天守閣を戴いた東出張所が見える。
官兵衛顕彰碑の説明文を読んでみよう。
黒田官兵衛と御着城
黒田家は、「寛政重修諸家譜」などによれば近江国伊香郡黒田村(現・滋賀県伊香郡木之本町)の出身とされます。重隆の代に播磨に入り、御着城の城主小寺政職に仕えました。
御着城は永正16年(1519)に築城されたと伝わりますが、明応4年(1495)に小寺氏は御着納所で段銭を徴収しており、15世紀末には既にこの地域を拠点としていました。羽柴秀吉による播磨侵攻で御着城は天正7年(1579)に陥落しました。
黒田官兵衛孝高は、羽柴秀吉の播磨侵攻、中国攻め、四国・九州遠征伐などで軍師として活躍し、天正15年(1587)に中津城(現・大分県中津市)を与えられました。孝高の嫡男長政は、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の戦功で筑前52万3千石を与えられ福岡城(現・福岡県福岡市)に移りました。
この地は、かつての御着城二の丸跡付近に位置し、西側の本丸跡付近には黒田孝高の祖父重隆と父職隆の妻(孝高の母)を祀った黒田家廟所(姫路市指定文化財)があります。また南側には小寺氏を祀った小寺明神があります。
昭和21年4月 姫路市教育委員会
東出張所のすぐ西にあるのが「黒田家廟所」である。説明板を読むと、黒田家とゆかりの深いことがよく理解できる。
姫路城主・黒田家の墓所
ここの墓所には、黒田孝高(よしたか)<官兵衛のちの如水>の祖父・重隆(しげたか)と生母(明石氏)の2人がまつってあります。
黒田家は御着城主小寺家の家老となり、重隆の時から姫路城を守って姫路城主となりました。姫路城主は子の職隆(もとたか)、孫の孝高とつぎましたが、1580(天正8)年秀吉の播磨平定の時、孝高は姫路城を秀吉に譲り、父職隆と自分は国府山城(妻鹿)に移りました。職隆の墓所は妻鹿にあります。のちに黒田家は筑前福岡の城主となったので、どちらの墓所も地元では「チクゼンサン」と呼んでいます。
ここの墓所は、1802(享和2)年に資材を九州から運んできて造られました。廟屋を持つ立派なもので、周りの龍山石の石塀から内部は、昭和56年に姫路市指定史跡となっています。
この廟所を造営したのは福岡藩主・黒田家である。当時の藩主は第10代斉清(なりきよ)だが、まだ子供であった。重臣が黒田家の求心力を高めるために廟所の整備を企図したのかもしれない。
墓塔は左が祖父・重隆、右が生母・明石氏のものである。明石氏とは、神戸市西区枝吉四丁目の枝吉城を本拠とした明石宗和(正風)の娘である。歌の道に優れていた雅な女性だったという。
国道2号をはさんで南側に「小寺大明神」がある。
まずは姫路市教育委員会による説明板を読んでみよう。
この地は、永正十六年(一五一九)に小寺政隆が築城したといわれる御着城の本丸跡に位置している。
小寺大明神は、宝暦五年(一七五五)の「播州飾東郡府東御野庄御着茶臼山城地絵図」に「今此所ニ小寺殿社アリ」と注記されており、社には御着城の城主であった小寺一族と御着城に関係する人々をお祀りしている。
小寺氏は赤松氏の一族である。小寺政隆が御着城を築き、その子の則職(のりもと)の頃には、御着城が本城、姫路城が支城という体制となった。その子の政職(まさもと)は黒田重隆・職隆(もとたか)を重用し姫路城代とする。
官兵衛もその地位を継ぎ、西から毛利、東から織田が迫りくる究極の選択において織田方に従うよう進言した。主君である小寺政職も一旦はそれを受け入れたものの、その後、別所長治や荒木村重の織田方離反に呼応する。その結果、天正6年(1578)に7年に秀吉の播磨侵攻により落城した。
城主・小寺政職は毛利方へ落ちのび、鞆の浦で亡くなった。信義に厚い官兵衛は、政職の嫡男・氏職(うじもと)を厚遇し、小寺家は黒田藩士として続いたという。
『軍師官兵衛』では小寺政職を片岡鶴太郎が演じる。政職は官兵衛の才能を引き出した名将なのか、毛利方に寝返ってチャンスを潰した愚将なのか。毛利方に寝返った荒木村重に幽閉された黒田官兵衛、時流を適確に読んだかに見えた小寺政職。どちらが正解だったのか、当時、誰にも分からなかったはずだ。