あけましておめでとうございます。本年も「紀行歴史遊学」をよろしくお願いいたします。毎年、元旦の記事では年の初めにふさわしい史跡を紹介しています。さて、今年は?
国造は「くにのみやつこ」と読んで、大和朝廷下の地方豪族のことだと習った記憶がある。古代のことだと理解していたのだが、現代にも国造を名乗る方がおられるのを知って無知を恥じた。昨年、「平成の大遷宮」を終えた出雲大社の宮司さん、千家尊祐(せんげたかまさ)氏、第84代出雲國造(いずもこくそう)である。
出雲市大社町杵築東の出雲大社参道脇に「千家尊福(せんげたかとみ)卿」の銅像がある。
尊福卿は尊祐氏の曽祖父の兄にあたり、第80代出雲国造である。宮司さんではあるが、大礼服を着ていらっしゃる。いったいどのようなお方なのか。台座の銘文を読んでみよう。
尊福卿は出雲国造八十代の出雲大社大宮司として神統の祭祀に仕え、神道西部管長、出雲大社教初代管長つぃては広く民族信仰の基礎に培い、やがて元老院議官、貴族院議員、埼玉静岡東京の府県知事となり、更に司法大臣に親任せられて多年政界にも活躍せられ、その間にありて本町の教育文化の進展と交通産業の開発に寄与せられたる事も少なからざるなり、これ悉く大国主大神が国土を経営し国民を愛撫せられし神徳の弘布具現に他ならずと云うべきか。爰に卿の赤誠と愛郷の精神を景仰追慕しその英姿を永くとどめんとするものなり。
昭和三十八年五月七日
大社町長 蒲生伝治
尊福卿は、オオクニヌシの再来ともいうべき有徳の人物である。オオクニヌシは哀れな兎を助けた心優しい神様である。境内に因幡の白兎の像がある。
尊福卿は、伊藤博文の勧めにより政治の道に入り、明治41年(1908)3月25日、第1次西園寺内閣の司法大臣となった。当時、卿は貴族院において木曜会という院内会派をつくっていた。立憲政友会総裁であった西園寺は、自党と近い立場の木曜会を貴族院における与党勢力となし、支持基盤を安定させようとしたのである。
しかし、同年7月14日の内閣総辞職によって退任となり、在任期間は実に短かった。それでも、国立公文書館のデジタルアーカイブで当時の公文書を検索すると、千家司法大臣の署名を見ることができる。
いよいよ、本題である。この尊福卿が作詞したのが有名な歌「一月一日」なのだ。正月の歌といえば、「もういーくつねーるーとー」と「とーしのはーじめのためしーとてー」の二つを思い出す。その後者が「一月一日」である。
前者の「お正月」が明治34年(1901)に幼稚園向けとして発表されたのに対し、「一月一日」は明治26年(1893)に小学校向けとして発表されている。
「お正月」はお正月を待つ気持ちを歌っているのに対し、「一月一日」はお正月となっためでたさを祝っている。ということで、本日にふさわしいのは「一月一日」なのである。歌えば出雲大社の神徳にもあやかれるかも。今年一年もよい年でありますように。
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