知識の詰め込みだとか知識偏重だとか、知識に対する風当たりは強い。おそらくは、受験前に詰め込んだあれほどの知識は使われることなく失せてしまった、という苦い思いがあるからだろう。
しかし、人類が営々と築き上げてきた知の体系を身に付けることは、それ自体が至難であり、それゆえに崇高な行為である。得た知識を活かすも捨てるもその人次第だ。
柏原市太平寺二丁目の石(いわ)神社に「知識寺東塔刹柱(さっちゅう)礎石」があり、大阪府の有形文化財に指定されている。
「知識」は仏教用語では「智識」と表記することが多く、寺名も「智識寺」と書くことが多い。ここでいう智識は、「仏教を信仰し寺や仏像を造ることに協力した人」のことであり、智識寺も智識によって建てられた大寺院だった。飛鳥時代末に創建され室町時代に廃絶したようだ。
聖武天皇、孝謙天皇、藤原頼通といったVIPが参詣した記録が残る、奈良・平安時代を代表する寺院である。伽藍は東西二塔を配する薬師寺式で、上の写真は東塔の刹柱礎石である。刹柱とは塔を垂直に貫く心柱のことだ。
実は石神社の境内の礎石の位置に塔が屹立していたのではない。礎石は動かされている。元の場所は下の地図のとおりだ。
上の地図で「現在地」と表示されているのが、下の写真である。
1300年前なら、この方向に「金堂」が写ったはずだ。その金堂には大仏が鎮座ましましていたのである。この大仏を聖武天皇が御覧になり、東大寺大仏の造立を発願なさったという。
大仏造立の詔は天平十五年(745)で、大仏開眼は天平勝宝四年(752)である。大仏鋳造の成った749年、宇佐神宮の八幡大神が大仏に参拝した。この時、聖武太上天皇は左大臣橘諸兄に大神への感謝の言葉を読み上げさせている。『続日本紀』天平勝宝元年(749)12月27日条の一部を意訳してみよう。
天平12年(740)に河内国大県郡の智識寺の盧舎那仏を礼拝した際に、「私もこのような仏をお造りして差し上げたい」と思ったが、なかなか出来ず、そのことを宇佐神宮の八幡大神に申し上げると、大神は「私はあらゆる神を動員して大仏造立を必ず成し遂げよう。いかなる艱難も乗り越え、無事に成就しようではないか」とおっしゃり協力してくださった。お言葉のとおり大仏は出来上がったので、うれしくもおそれおおいことと思い、そのままにしておくことはできず、おそれながら大神に一品、比咩(ひめ)神に二品の神階を奉ることとする。
この記事から、大仏造立は智識寺の大仏を参拝したことが動機となっていることが分かる。天平12年2月7日条に難波宮に行幸したとの記事があるので、その際立ち寄ったものと考えられている。『続日本紀』の原文では次のような表記となっている。
去辰年河内國大縣郡乃智識寺爾坐盧舍那佛遠礼奉天則朕毛欲奉造止思登毛
(いにしたつのとし、かわちのくにおおがたのこおりのちしきじにまするさなほとけをおろがみまつりて、すなわちあれもつくりまつらんとおもえども)
智識寺の大仏は高さ18mともいわれ、塔は約50mの五重塔であったと推定されている。東大寺大仏のモデルとするに十分である。大仏を造った聖武天皇は偉大だが、天皇の気持ちを動かした河内国の智識のみなさんも偉大だ。智識さんたちに大きな仏様を造ろうと思ったきっかけを尋ねてみたいものだ。
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