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禁足地とは足を踏み入れてはならない場所のことだ。よくオカルトスポットと混同されているが、神聖な場所である。神聖だから穢れを有する人を入れない、だから木が生い茂る、すると鬱蒼となってオカルトチックになってしまう。今日は日本を代表する禁足地のお話をしよう。
市川市八幡二丁目に「不知八幡森(しらずやわたのもり)」がある。「八幡の藪知らず」ともいう。出口が分からず迷うことを意味する慣用句にもなっており、『広辞苑』にも収録されているらしい。試みにコトバンクで検索すると『大辞林』『大辞泉』に掲載されていた。
人通りの多い場所にあり、朝に訪れたので見て気味が悪いとは感じなかったが、足の踏み場もないほど荒れた竹藪で、とても入れるとは思えない。近くの葛飾八幡宮の境外地で、不知森(しらずもり)神社がある。
不知八幡森とはどのような場所なのか、ここが禁足地となったのはなぜか、市川市教育委員会の説明が大変分かりやすい。謎解明の決定版と言ってもよいだろう。
江戸時代に書かれた地誌や紀行文の多くが、八幡では「藪知らず」のことを載せています。そして「この藪余り大きからず。高からず。然れども鬱蒼としてその中見え透かず。」とか、「藪の間口漸く十間(約一八メートル)ばかり、奥行きも十間に過ぎまじ、中凹みの竹藪にして、細竹・漆の樹・松・杉・柏・栗の樹などさまざまの雑樹生じ……」などと書かれたりしていますが、一様にこの藪知らずは入ってはならない所、一度入ったら出てこられない所、入れば必ず崇りがあると恐れられた所として記載され、「諸国に聞こえて名高き所なり」と言われて全国的に知られていました。
入っていけない理由については、・最初に八幡宮を勧請した旧地である。・日本武尊が陣所とされた跡である。・貴人の古墳の跡である。・平将門平定のおり、平貞盛が八門遁甲(はちもんとんこう)の陣を敷き、死門の一角を残したので、この地に入ると必ず崇りがある。・平将門の家臣六人が、この地で泥人形になった。……と、いろいろ言われてきました。中でも万治年間(一六五八~六一)、水戸黄門(徳川光圀)が藪に入り神の怒りに触れたという話が、後には錦絵となって広まりました。
「藪知らず」に立ち入ってはならないという本当の理由が忘れ去られたため、いろいろと取り沙汰されてきたものではないでしょうか。
またその理由のひとつとして、「藪知らず」が、「放生池(ほうじょういけ)」の跡地であったからではないかとも考えられます。
古代から八幡宮の行事に「放生会(ほうじょうえ)」があり、放生会には生きた魚を放すため、池や森が必要で、その場所を放生池と呼びました。藪知らずの中央が凹んでいることからすると、これは放生池の跡であるという可能性が十分に考えられます。
市川市周辺地域は中世には千葉氏の支配下にありましたが、千葉氏の内紛で荒廃し、八幡宮の放生会の行事が途絶えてしまい、放生池には「入ってはならぬ」ということのみが伝えられてきたことから、以上のような話が作られていったものと思われます。「不知八幡森」の碑は、安政四年(一八五七)春、江戸の伊勢屋宇兵衛(いせやうへい)が建てたものです。
平成十六年三月 市川市教育委員会
諸国に名高いそうだが、実を言うと、私はまったく知らなかった。しかし、たいへん興味がある。開発の手はここまで及ぶかという首都圏で、禁忌とされる場所があるとは。ここまでくると、足どころか手も入れられまい。永遠に残されていくであろう。
科学万能の時代で超常現象は次々と説明可能になっている。しかし、人がオカルト的な怖れを失うことはないだろう。同様に神に対する畏れも失ってはならない。人間界に潜む闇は実は貴重な文化遺産ではないかと思う。
禁足地とされた理由が気になるところだが、諸説あることが紹介されている。中でも「平将門」ゆかりの理由が面白い。八門遁甲とは中国の卜占(ぼくせん)の一種だが、これが将門を倒すのに使われただとか、家臣が泥人形に化身されられただとか、オカルトチックな場面に将門が絡むのが関東らしい伝説である。
さらには、水戸黄門までがオカルトに巻き込まれているではないか。徳川光圀は名君として名高い大名で、TVによってすっかり伝説化されている。しかし、それは勧善懲悪の正義のヒーローであるはずだが、ここでは失敗をやらかしている。
さて、いよいよ禁足地の真実に迫りたい。生命尊重の考えを基盤に執り行われる「放生会(ほうじょうえ)」。この儀式で実際に魚を放った「放生池」。この神聖な場所が「不知八幡森」となった。その証拠に森の中央付近がへこんでいるという。誰か入って確かめたのか?
ともあれ、これが最も説得力がある。おそらく真実であろう。もともとの意義が忘れ去られ、入るべからずという禁忌だけが独り歩きし始め、様々な憶測により伝説が生じてゆく。歴史認識の一端を如実に表しているようにも思える。
上の写真は、説明文の最後に登場する安政四年の碑である。伊勢屋宇兵衛は醤油を扱う「伊勢宇」とも呼ばれる富商で、各地に石橋を架けた篤志家でもあった。写真の碑も「不知八幡森」の保存を念頭に建立したものであろう。とすれば伊勢宇は、ESD(ええものを子孫の代まで)の精神の持ち主だといえよう。
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