小説を読むのは得意ではないが、文学史をひもとくのは好きなほうだ。高校の国語便覧に近代文学史年表があって、掲載作品を順番に読破しようとしたことがある。二葉亭四迷『浮雲』、幸田露伴『五重塔』と頑張ったのだが、樋口一葉『たけくらべ』で挫折してしまった。
それでも年表をながめているうちに、作家の代表作だけは記憶に残るようになった。長塚節(ながつかたかし)といえば『土』である。シンプルなタイトルが覚えやすい。冒頭部分も印象的なので紹介しよう。
烈(はげ)しい西風が目に見えぬ大きな塊(かたまり)をごうつと打ちつけては又ごうつと打ちつけて皆痩せこけた落葉木の林を一日苛(いぢ)め通した。木の枝は時々ひう/\と悲痛の響(ひゞき))を立てゝ泣いた。
しかし、長塚節がどこの出身かまでは考えたことがなかったし、肖像も見たことがなかった。
茨城県常総市石下地区。自転車をこいでいると、この銅像に出会ったのだ。誰?、長塚節、ああ『土』の人か。なんだか土っぽいな。意味不明な感想を抱きながらカメラを構えた。
常総市本石下の石下中央公民館前に「長塚節之像」がある。同じ旅姿の像が、長塚節生家、豊田城(地域交流センター)にもある。石下の誇る文化人なのである。
長塚節がどのような作家なのかは、ネット環境があればいつでもどこでも調べられる。しかし、この像を見て、この地の空気を吸ってからレポートすれば、深いところで理解できる気がする。像の背後にある常総市・常総市観光協会設置の説明板を読んでみよう。
長塚節は明治十三年四月三日、茨城県岡田村(現常総市国生)に父源次郎、母たかの長男として生まれた。三才のときには“いろは”を確実に読み、百人一首を暗誦するなど神童振りを発揮した。学令に満たない五才の時、国生小学校に入学、下妻高等小学校を経て、明治二十二年茨城県尋常中学校(現水戸一高)に入学、常に主席を占めていた。しかし健康がすぐれなかったため四年のとき中学校を退学、以来家郷に在って気の趣くままに旅を志し自然の美を探勝しながら療養につとめた。
明治三十三年の春、かねてから感銘敬慕していた正岡子規に入門、もっぱら万葉集の歌風を学び、三十六年には根岸短歌会の機関誌「馬酔木」の編集同人として活躍した。四十年前後には家運の挽回をはかるべく炭焼きの研究、竹林の栽培に情熱を傾けた。また岡田村青年会を創設し、初代青年会長となって青年の指導と農村振興に努力した。四十一年には伊藤左千夫たちと「アララギ」を創設し、短歌から写生文そして小説へとますます意慾のほどをみせ、「芋掘」「開業医」「旅日記の一節」「菜の花」「おふき」「教師」「隣室の客」「愛せられざる花」「太十と其大」などを、ホトトギス誌上などに発表した。
更に四十三年には、不朽の名作「土」を夏目漱石の推挙により朝日新聞(同年六月十三日から一五一回掲載)に発表した。四十四年、黒田てる子との縁談が成立(われ三十三年にしてはじめて婦人の情味を解したり)と喜んだが、それも束の間、病魔の冒すところとなり婚約を解消して療養生活に追い込まれる。この間、名作「鍼の如く」二三一首を詠んだ。因みに「土」につづいて死刑囚をモデルにした大作を構想していたが、未発表のまま大正四年二月八日、旅先の福岡医大の病室に於いて三十七才の短い生涯を閉じた。
昭和四十五年、大阪の万国博覧会における毎日新聞社の企画により、古来から現代に至る日本の文化百般に亘る最高の業績のものをタイムカプセルに納めて五千年後の人々に紹介することになり、厳選の結果近代歌集(全五点選出)の一つに「長塚節の歌集」が選ばれた。
豪農出身の神童(説明文の「主席」は首席だろう)、正岡子規に師事しての作歌、夏目漱石が推挙した『土』、病による早世、全力で駆け抜けたような生涯である。
そして、大阪万博のタイムカプセルに「長塚節の歌集」が収められていることは特筆に値しよう。当時の日本人が後世に伝える価値があると判断した、ありとあらゆるものを収め、五千年後の人類に見てもらおうという壮大な計画である。
近代日本の歌人では、石川啄木、北原白秋、長塚節、斎藤茂吉、与謝野晶子の5人が選ばれている。収められた節の歌集は、『日本詩人全集5 長塚節集』 新潮社¥330である。私としては啄木、茂吉、晶子は歌人、白秋は詩人、節は長編小説『土』というイメージだった。
ここ常総市には長塚節文学賞があり、今年で第17回を数える。短編小説、短歌、俳句の三部門がある。節自身にも「太十と其犬」(説明文の「其大」は誤り)などの短編小説があり、短歌や俳句も多い。『土』は作品群の一つにすぎないのだ。
それでは、日本を代表する歌人、長塚節の歌を鑑賞することとしよう。節の歌碑は各地にあるが、常総市には特に多い。その中でも最初に建碑されたのがこれである。
常総市杉山に「長塚節の歌碑」がある。
読めない字が多いのだが、どうやら変体仮名が使われているようだ。「鬼怒川」の次の字は「越」をくずした変体仮名で「を」と読む。ここはやはり常総市教育委員会の説明板に頼ろう。
鬼怒川を夜ふけてわたす水棹(みなさお)の 遠くきこえて秋たけにけり
鬼怒川は、奥日光を源流に、本県の南西部より利根川に合流している。その流れのように生涯旅を続けた節は、筑波山をはじめ、鬼怒川流域の故郷等の風景を数多く詠んでいる。また、旅行や所用の折には、地元国生の渡しを利用し、幾度となく鬼怒川を渡った。この歌は、明治四十一年、節が二十九歳の時に、深まりゆく秋の風情を水棹に託して詠んだもので、「秋雑詠」八首の中の一首である。
歌碑は、昭和十八年十一月三日、節の親友で書家の岡麓や同郷有志によって、節がこよなく愛し多くの作品を遺した、筑波山や鬼怒川を眺望できるこの地に建碑された。
「秋たけにけり」は秋たけなわ、秋深しという感じだろうか。11月も半ばが近付いて朝晩が寒くなってきた。鳥も虫も鳴かない静けさに包まれている。季節の味わいは誰もが言葉にせずとも感じているのだが、こうして先人の歌に接すると秋のよさがいっそう深く感じられる。
長塚節が手本とした万葉集の歌が詠まれて1300年が過ぎた。長い歳月を経ても愛され続ける万葉歌。今から5000年先はどうなのだろう。タイムカプセルを開けた人々とも、11月の秋の深まりを共感できるのだろうか。
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